《SCENES》

            2004.06.15.

 

The West meets East

NEW YORKへの新たなる挑戦

 

汪蕪生は魂の人である

他にこれほど魂を込めて話す人を知らない。汪蕪生は廻り道をして語らず。真っ直ぐに心の丈を表し、相手に投げかける。

この傾向は幼い頃からのようで、彼の父親は「お前は命を削りながら話すところがあるから、人を選んで話をするようにしなさい。そうしないと、お前の身が持たないよ」と諭したという。

ゆえに汪蕪生は、魂のあり方をとても大切にする。それは「人間本来無一物」という言葉と共に、彼の作品作りに反映されているように見える。

本来、人の肉体は、死んだら何も残らない。死ぬとただ魂だけになる。死んだときに肝心の魂が貧しければ何にもならない。たとえどんなに物質的に恵まれ裕福だったとしても、物が魂と共に昇華することはないのだから。人は死ぬまでに、生まれたときの新の魂をいかに自分で鍛え、美しく仕上げていくかが重要で、魂を貧しくしないためには、毎日を心豊かに暮らすこと。
美しいものを観てその感動と喜びを出来るだけ多く心に刻み込むこと、それは彫刻をこつこつと仕上げていくことに似ている。

汪蕪生は、彼自身の作品が「美しいもの」として人の魂に感動を与え、心の奥深いところに眠っているものを揺り起こす力となるべく魂を込める。

明治から昭和にかけて。思想家、鈴木大拙は、東洋の魂と禅、自然について以下のように述べている。

西洋の人たちは、何事にも征服感が先達らしい。山ヘ登れば山の征服、海の底に入れば水の征服、大気中を飛んであるけば空の征服、なんでもかんでも、対峙的に見ようとするから、しかしてそれが自分の敵のように見られるので、それに打ち勝ってやろうとするのである。西洋の自然は二元的で「人」と対峙する。相剋する。どちらかが勝たねばならぬ。

東洋の「自然」は「人」をいれておる。離れるのは「人」の方からである。「自然」にそむくから、自ら倒れていく。それで自分を全うせんとするには「自然」に帰るより外ない。帰るというのは元の一つになるという義である。「自然」の自は他と対峙の自ではない。自他の対峙を超克した自である。主客相対の世界での「自然」ではない。そこに東洋の道がある。

大拙の思想は、汪蕪生が作品に込める「人は自然の中に置かれ、両者が協調し合って始めて発展と生存を続けることが出来るという意の天人合一」に一致する。

大拙が自然と対峙するとした西洋の写真芸術家の代表が、アンセル,アダムスなら、東洋の代表は汪蕪生となるだろう。

西洋でもない東洋でもない
人それぞれの D N Aにある原風景

汪蕪生が撮り続け発表してきた作品、中国の霊山「黄山」の心象風景を表した写真は、その山を始めて目にする日本人の心をも掴み、郷愁の念さえ抱かせる。汪蕪生が「黒白魂」と呼ぶモノクロームの世界では、山肌や奇松は真っ黒に塗り潰されて、空間には露と霧と霞と雲が舞い、光が疾る。意図的にシンプルにされた構図の画面では、個々の対象物の存在は際立ち、人はそこに見入る。

汪蕪生の作品を目の前にすると、現在自分が実際にいる場所から、国も季節も気候も全く関係のない世界に連れ去られてしまったような感覚に陥る。それは、現代であれ、ルネッザンス期であれ、優れた作品のみが待つ、時空を超越させる力であろう。汪蕪生の作品は、美しきものをただ与えるのではなく、見るものに対して想像する空間を提供する。

一九九八年、ウイーン美術史博物館で「天上の山々」と題して開催された個展は、汪蕪生自身に改めてそれまでの方向性が間違っていなかったことを知らしめる企画展となった。パリのルーブル、マドリッドのプ一ラドと並ぶ欧州三大美術館のひとつウイーン美術史博物館では、写真の企画展が始めてなら、東洋人作家、さらには存命中の作家の個展も初という、きわめて異例な企画展となった,また汪蕪生にとっても東洋以外で行う初の本格的な個展であった。この個展八十二日間の開催期間中、来場者は三十八ケ国から四万人に上ったが、何より汪蕪生の心を打ったのは、欧州の観客の作品に対する反響の大きさだった。ここに、ひとりの観客が会場の感想ノートに残した生の声がある。

「私は今日、学校ヘ行きたくなかったのでここに来ただけだった。本当に素晴らしいところだった。全部が私に影響を与えた。ほんものの写真がここにはぐるりと展示されている。私は一人の人間としてここにいて、歩いて観て回る。ここには永遠がある」

この個展で欧州の人々に受け入れられたのは、汪蕪生の作品の中にある「東洋の心」であり、鈴木大拙の「自然」や汪蕪生の「天人合一」の思想と同様のものである。これは、自然に対する東洋のアプローチ法が、東洋人固有のものではなく、同じ感覚として欧州・西洋人も共有できることを証明した個展となった。

今回、誌面に掲載した作品は、汪蕪生が西洋でも東洋でもない、人それぞれのD N Aにある原風景を求めて、欧州の風景に東洋的アプローチをした、心象風景である。


再びニューヨークヘ

一九九〇年、汪蕪生はニューヨークに滞在していた「天国でも地獄でもなぃ、欲望の戦場ニューヨーク,最高のものと最悪のもの、最も美しいものと最も醜いものを呑み込む街。そして、物質社会アメリカを象徴する街」この時はただ閉塞感だけを感じ、一年あまりの滞在から東京に戻った。

それから十四年後の今、汪蕪生はニューヨークでの活動を再開しようとしている。ウイーンの個展を経て、心象風景の対象は黄山だけではなく、西洋にも広がり、その作品の主題は、全ての人が共有する普遍的な原風景への探求となった。

さらに大国アメリカは精神的に疲弊し病みつつある。汪蕪生は、アメリカ及び西洋美術界の中心ニューヨークに、今こそ彼の作品が求められていると感じている。

鈴木大拙は、明治三十年に渡米し、日本と欧米を行来しながら、「禅」を始め「仏教思想」を、多数の英文著作によって西洋世界に広く紹介した。汪蕪生もまた「東洋の心」と「普遍的な原風景」を、その作品に於いて西洋世界に発していくのであろう。

また魂の人は、時に別の魂を揺さぶる、自身も画家の顔を持つ三井住友銀行名誉顧問、小山五郎の言葉は、汪蕪生の魂を美しく形づくる一槌となった。

「汪さん、小生は貴方を敬愛します。あくまでも御元気で、勇気を以て、貴重な貴方の人生を飾り進んで下さい。先哲も云いました、人生は一度しか無い、此の人生を無駄使いしないで、美しく生きてください。美しく、勇敢に!/二〇〇三年七月十七日 小山五郎」

汪蕪生の作品の中で、雲は特別な絵筆となる。空にあり、常に変化し流れていく雲、その一瞬の形状を捉えて、汪蕪生は彼の心象を焼き付ける。これはもう黄山だけにとどまらない。ヨーロッパの街並みであろうが、ニューヨークであろうが変わることはない。汪蕪生が自然や街並みと同化するとき、どこからかその形をした雲はやってくる。そして、シャッターは落とされる。(文中敬称略)

                                                                                                                文/秋山徹  構成/織田祐介