「しんぶん赤旗」

            2000.07.16.

 

雄大な自然に魂  震撼

中国の名山・黄山を撮りつづけて二十余年

 

険しい岩肌、樹齢千年を超える木々、そして果てしなく続く雲海――汪さんが写し出した黄山は、まるで生き物のようです。

「この空間では、つばをのみこむ音すらたてたくない! 吸い込まれそうで、とても怖いです」 (大学生・女性)

「絵だけでは味わうことのできない細部の描写と一瞬の光のゆらめき、生で間近で見られて、うれしいかぎりです」 (高校生・男性)

個展「天上の山々」の会場に置かれた感想ノートには、驚嘆の声が日本語や中国語などでびっしり並んでいます。

会場の出入リロに、観客からサインや記念撮影を求められる汪さんの姿がありました。人懐っこい笑顔。

「今回は、若い人の反応が一番大きな収穫でした。『きれい』『怖い』といった、素直な、いろんな感想があったからです。芸術とは、アーティス卜の感動を伝えるものです。これ以上の喜びはありません」

同個展はヨーロッバ三大美術館の一つ、ウィーン美術史博物館でも開催され(一九九八年)、世界三十八ヵ国、約四万人の観客を集めました。

水墨画や墨絵を勉強したことはない、と語る汪さん。

「試行錯誤の連続、失敗の積み重ねからたどりついたのが、こういう形なんです。東洋人独特の白黒の美意識が、自然と表れたのではないでしょうが,写真芸術は西洋文化ですから、西洋的なものの考え方や現代人のリズム感も融合しているはずです」

汪さんと黄山との出合いは、二十六年前。新聞社のカメラマンとして取材で登り、魂を震憾(しんかん)させられるほどの衝撃を受けた、といいます。

「 この雄大な自然、それをつくりあげた悠久の歴史と比べれば、人間の一生はほんの一瞬にすぎないと感じたのです。その一瞬をどう生きるか。目標に向かって、どんなにつらくてもそれを追い求めていくことこそが人生だと、そのとき考えました。黄山が、私の人生観を確立しました」

八一年、黄山を撮影する時間をつくるためフリーになり、旅行で訪れたことのある日本にくることになりました。中国の若手写真家のなかではトツプの立場にいた汪さんですが、日本で待ち受けていたのは貧窮と病苫でした。

「日本にきたら、中華料理店の皿洗い・・・・・・どんな険しい道でも乗り越えてみせると覚悟を決めてはいましたが、想像以上のス卜レスがたまっていたんでしょう」
入退院を繰リ返し、黄山で倒れたことも。そんなとき、彼の作品を高く評価する大学教授や写真家が、物心両面にわたって支援してくれました。八八年、西武美術館での初めての個展が成功を収め、病気もいえました。

「優しい日本人の方々が支えてくれなかったら、今日の私はなかったでしょう。日本は第二の祖国ですから、二十一世紀に向けて中日二つの国が真の友好を育ててほしいと思っています。何かできることがあったら尽力したい、それが私の気持ちです」


十五キロもある機材を背負って、一人で山を登ります。変化の激しい自然がテーマだけに、シャッターチヤンスは一瞬。二、三ヶ月待って、一枚も撮れないこともある、といいます。「山の猿みたい」と笑いながら、「でも、自然のなかにいると心が洗われ、最高ですよ」と。

人びとを魅了する作品をつくりながらも、こういいます。

「私のイメージからは、まだかなり距離があります,もっともっと完成度の高い展覧会をやっていきたい」。

「私の目標は、モーツアルトやべートーベンのように、人種が違っでも、いくら時間がたっても、永遠に力を持つ作品をつくることなんです」