The Japan Times

            2000.07.08.

 

心の中の黄山を追い求めて

Quest for Huangshan of the heart
By ALEXANDER MACKAYSMITH W
Staff writer

中国の安徽省にある揚子江の南、古めかしい町並みが並ぶ蕪湖市の近くに黄山はそびえ立つ。山には幾連もの尖った峰や絶壁が続き、とてつもなく高い山ではないものの、黄山は非常に印象的だ。松の木に飾られた高台に渦巻く雲や霧、神秘的な洞穴、風変りな形をした岩、滝や深く陰がかったくぼみに潜む温泉などは、中世の時代より多くの神秘主義者、観光客や画家達を虜にしてきた。中国の風景画というと、たいてい人の頭に浮かぶものはまさしくこの黄山の景色なのである。

1960年代、汪蕪生(ワン・ウーシェン)という名の蕪湖出身の、不安げな面持ちをした十代の青年は黄山の山頂を登った、そしてまさに地球が空に届くその場所で、山々が彼を呼ぶのが聞こえた。

国は正しく文化革命の自己破滅的な狂乱の中に陥ろうとしていた。自ら「頑固者」と表するワンは、安徽師範大学のまず初めの恰好の標的となったうちの一人となった。にもかかわらず、彼はなんとかその動乱を乗り切った。そして70年代初めには、安徽省新聞社のカメラマンとして、黄山への一連の仕事の旅を開始した。そのシリーズは20年以上に渡って続き、7月16日まで恵比寿の東京都写真美術館にて開催されている、「天上の山々」という彼の展覧会は、その幾つかの成果を表すものである。

媒体は写真であるものの、魂や感性は全く中国的である。人は一見水墨画と見間違えてしまうだろう、幾つかは日本の屏風に張られている、写真のサイズによって、その印象はより一層強いものとなる。写真は――今ここにありながら、実ははるか遠くに、そして永遠に――というワンの山に対する率直な体験が表現されている。

図録の中で彼は言う、「一切の色を取り去き、私は白と黒のみ使う」。1981年ワンは、彼の言うところの自己発見の追求を続けながら来日した。日本でもまた、数々の難儀を経験するが、彼の頑固さが幸いした。彼は認められるようになり、芸大にて学んび、展覧会も開いた。1990年にはニューヨークにて学び、90年代は彼の経歴は遂に花開いた。現在の展示物はウィーン美術史博物館において、初の東洋人であり、初の写真家の個展となったウィーンから来日したものである。

ワンの大学における専攻は芸術ではなく、物理学であった。学生時代は中国文学のみならず、ロシア文学や西洋文学も同様、読める限りの本を読みあさった。彼は芸術や哲学も学んだ。日本では俳人や禅愛好家達と友人になった。彼は言う、「自分の東洋的な根源の全ての融合は作品にしみ渡っている。私の写真を見た人は誰もが東洋のもので、中国の写真だということがわかるだろう。」

物理学科で学んだ論理的な考え方は彼の芸術の発展において重要だった。「私は黄山がどんな岩石から成り立っているのか知ろうとしているのではなく、心の中の黄山を理解しようとしているのです。そしてこの目的のために、私は20年もの歳月を費やしてきました。」と彼は語る。

彼が芸術家として活動を始めた時、彼は芸術的な訓練の不足により抑圧された気分になったが、後にそれを彼のバネと考えるようになった。

「芸術の真髄は個人の特性の現れである。芸術はかつてこの世で存在しなかった芸術的言語を創り出している...私は(アンゼル)アダムズの作品がとても好きだが、もしも私が彼の足跡を辿るのみに留まれば、誰もそれが汪蕪生(ワン・ウーシェン)の作品だとは思わずに、これはアダムズの作品だと言うだろう。」

しかしながら、ワンは「極度な自由」への「病的なほどの思考傾向」を同様に拒絶する。「過剰な民主主義の極地はさらに文化と芸術の破壊を招く」と彼は言う。

「芸術とは何か」ワンは問う。「私たちは芸術というものをあまり複雑にしすぎるべきではないのです。さもなければ、その意義が失われてしまう。私の考えでは、芸術とは人々のなかにある真、善、美を啓発するためにあるのです。私たちが醜くさを露見させてしまう時、芸術の究極の目的は人々の真、善、美に対する切望や追求をあらわにすることなのです。」

ワンは彼の作品の民族的なものは世界共通的なものだと感じている。「より国際的になればなるほど、より民族的だ」と彼は語る。

「誰もが黄山は美しいと言い、尊敬している。黄山の絵や写真は何百何千とあるが、一目見ればその違いが分かるでしょう...芸術家によって創り出された美は個人の特性の美を含みます。時代や民族はそれぞれ共通の美意識があるかもしれません、しかしその概念の領域には時間と空間を超越する美があるのです。」

「そのような美を追求することが生涯に渡っての、芸術家の使命なのです。」