「朝日新聞電子電波メディア局」 

            1999.06.01

 

 阿部和義のあのひと このひと

中国の写真家――汪蕪生さん

 

ゴールデンウィークの大型連休の4月29日から5月4日まで中国を旅した。中学時代の友人三人と一緒に上海から車で八時間ほどの安徽省にある黄山着いた。黄山は中国でも有名な山であり、「奇松怪石」というのがうたい文句である。ふもとの「桃源賓館」で一泊したあと、メーデーの五月一日にロープウェイで登った。中国も五月一日から三日間連休ということもありロープウェイに乗るまで約1時間かかるという大変な人々であった。

ロープウェイで上がってから素晴らしい松と奇妙な形になっている山の石を見ながら、宿泊先の「北海賓館」まで歩いた。ここで二泊して黄山のすばらしい風景を楽しむと同時に写真を撮った。黄山の風景はすでに東京にいるときに汪さんの立派な写真集「黄山神韻」(講談社)でみているので、すばらしさを実体験する旅となった。

今回のたびのきっかけは第一生命の副社長であった山口隆・第一ビルディング社長にある。山口さんとは私が経済部記者で日銀記者クラブにいる時から親しくさせてもらっていた。時々お会いして情報交換している。昨年五月に山口さんが「私が応援している中国の写真家がウィーンで写真展を開くんだ。その記事が朝日新聞に出ている」という。調べて見ると都内版に汪さんの写真ともに「墨田区在住の中国人写真家汪蕪生さん 故郷の山撮って 東洋人初の個展」という記事が載っていた、この時初めて汪さんの名前を知った。

私の千代田区九段中学校時代の友人である関光雄君が都心の千代田区三番町で中華料理店<光華亭>を開いている。私は時々この店で中学時代の と会う。ある時、関君が「あべ君、黄山という山にいかないか」と言って来た。関君の店に来る物流の会社である「日新」の  さんが誘ったのこと。黄山という名前を聞いて山口さんから話を聞いているので是非登ろうという話になって、今回の登山が実現した。

山登りが決まったことから山口さんに連絡して三月三十日に汪さんと都内のプレスセンターで会った。汪さん五十三歳で独身が、さわやかな印象を与えてくれた。山口さんと約一時間半わたり黄山のすばらしさを話し合った。

その話で、汪さんは中国安徽省蕪湖市に生まれ、地元の皖南大学(現安徽師範大学)物理学科を卒業して、地元の新聞社のカメラマンになった。その時から黄山を撮り始め「人民日報」「中国画報」などに発表して来た。十六年前に日本に留学生(日本国際交流基金研究員)となって来日して、東京芸術大学、日本大学などで研究して来た。故郷の黄山に対する思いは ばかりであり、その間に黄山に取材に行くなどして、日本で写真集を出すなどして活動して来た。山口さんの縁は、写真を引き伸ばしたりする場所がないと言うことから頼まれて貸したとのこと。汪さんは都内のビルに住み込んでウィーンへ出品する写真をつくりあげた。山口さんは人から頼まれると群馬県渋川市出身の「上州男」らしく二つ返事で引き受けて来た。汪さんからの頼みも中国人ということは関係なくすぐに決めた、という。

汪さんは山口さんのほかに小山五郎さくら銀行名誉顧問、瀬戸雄三アサヒビル会長、藤田史朗NTTデータ会長、学界から隅谷三喜男・東大名誉教授らの応援団がついていることもわかった。

そのあと我々中学時代の友人四人と一緒に汪さんと会うこととなり、光華亭で会った。汪さんは気軽に来てくれて、写真集のもとに黄山のすばらしさを説明してくれた。ウィーンで昨年個展を開いたことが評判を呼んで忙しい毎日という。人の縁で実現した黄山の旅は大変に楽しいものであったし、中国の大きさを実感したものである。