《H0USlNG&LlVlNG》

                1994.3. No293


「食のクロスカルチャー」

 

世界中、何処にでもある料理――

華僑という人たちが、長い年月をかけて広めていったのが中国料理だ。それは頑な態度のまま運ばれたものではなく、辿り着いた先の食文化を混ぜ合わせていくという、しなやかなもの。
だからこそ、あらゆるところで少しずつ形を変えて定着することができた。

日本にやって来て12年という写真家の汪蕪生さんにもそれは当てはまるかもしれない。

ことさらに、日本に暮らす中国人という意識を持たず、自分は自分でしかないという考えは、写真を撮るなかで見つけたと言う。

汪さんが「久しぶり」と言いながら作ってくれた料理にも、それがしっかりと感じられた。

文/佐藤 朗  写真 上野 敦

「食事、料理というものね、身に染みついた習慣ですね。慣れた味、小さい頃から、おふくろからよく食べさせてもらった味、どうしても身についてる。

だから日本へ来た頃はすごく惨め、食事のことが。最初、日本茶には海草が入ってるような味を感じたり。中国のお茶と違ってね。口に合わなかった」

台所に立つ汪蕪生さんはそう言って笑った。そして、「このレバーと豆腐の炒めたのはね、お金ない時、自分で作って食べてたのね。レバー、昔は安かったから。だけど長く日本にいるうちに日本料理にだんだん慣れて、あまり作らなくなった。お寿司には日本茶がいちばんと思うようになったし、今はなんでも大好き。納豆と梅干し以外はね」と付け加えた。

自由に創作活動をするために、
まず、外国へ行きたかったんです。

汪さんがはじめて日本へやって来たのは1980年。その時は2カ月ほど滞在して、翌年の81年に留学という形で再来日。途中、1年間ほどニューヨークで過ごした時期を除いては、ずっと日本での生活を続けている。彼の仕事は写真。黄山という、たくさんの峰の連なる山(中国人なら誰でも知っているという名所。東洋的で幻想的といわれる風景は桂林以上の人気があるそうだ)を20年以上も撮り続け、これまでに『黄山幻幽』『黄山神韻』という2冊の写真集を出版、西武美術館で個展も行った。

何度も訊かれたに違いない質問、どうして日本へ来たのですかという問いに彼はこう答えた。

「まず外国に行きたかったんですね。アメリカでも日本でも。色々と理由はあるんですが、話は黄山からはじまる。

74年に私は最初に黄山に行ってすごく感動しました。こんな素晴らしいところがある。しかしね、それまでの黄山の写真や絵は、私の受けた感動と違うなと思った。なんか不満足感があった。じゃあ自分でやろうと。それで7〜8年間、写真を撮っているうちに、だんだん、自分なりの方法とかがわかった。

日本に来る前は、人民日報で紹介されたり本も出しました。だけど、その頃の中国は文化大革命も終わったばかりであまり開放的ではなかったですよ。まず中国にフリーカメラマン、いないですからね、不可能に近いみんな公務員みたいなものだからね、自分の自由な時間、時間をかけで黄山を撮るチャンス、まずないんですね。だから唯一の方法としては外国へ行って、フリーになって、ね。すると自由に創作活動ができる。

日本を選んだのは、留学のチャンスがあったことと、たまたま東山魁夷先生の絵を見て、日本の美的な様式、中国の山水画、墨絵上達ったスタイルに惹かれたのが原因ですね」

汪さんが生まれ育ったのは中国東部の安徽省。子供の頃から音楽や美術や演劇が好きだったが、大学では物理を学んだ。中国では大学に進める機会はすごく少ないので嫌々ながら入学したが、やはり失敗だったと言う。卒業後、蕪湖市文化館の仕事で報道写真を撮るようになるのも大変なことだったようだ。当時の中国では、大学生の卒業後の進路はほとんど政府が決めてしまって、個人の希望はかなえられることが少なかったというのがその理由。普通なら汪さんは物理の先生になるはずだった。「両親も友達も、みんなそう思ってたけど、私はどうしても嫌だった。絶対嫌だった」

何処に住んでもかまわない。
やりたいことだけを考えてるから。

日本で暮らしている外国人と会って気づくのは、彼らの緊張感だ。馴染みのない環境とどう付き合うか。海外旅行から帰って来た時のことを考えてみるとまず感じるのは、物事の隅々までを理解できるという、安堵感にも似た快感。しかし、生活をしている外国人には、それは無理な話だ。せいぜい友人と母国語で話をするか、郷土料理を食べて、少しだけホッとするぐらい。
仮に長く暮らして、そこの言葉や料理に慣れたとしても、安堵感だけは得られない。

だけど、時にはそんな緊張感のない人に出合うこともある。たとえば汪さんのような人。

「味覚や言語は生まれ育ったところのものが染みつきますね。それは抜けないね。だから懐かしいという味、誰でも美味しいと思ってるでしょう。私もそう。でも、それを追いかける気持ちはないんですね。今はね。

あの、アメリカで暮らした時はね、自分がアジア人だなと思いました。日本では中国人だなと意識した。でも、ふだんは忘れてますよ、そういうこと。

それも結局、黄山でわかったんですよ。あの山で自分自身を見つけた。自分は自分だということね。だから今は日本にいますが、何処に住んでもかまわないんです。一つの場所で安定して人生をおくるという考え、昔からないしね。やりたいことだけを考えてるから」

そう話して、汪さんは父親から教わったというなすのしょうゆ炒め(紅焼茄子)を作りはじめた。できあがったものを口にすると、彼は首を傾げた。「失敗だね。ずっと作ってないから、違っちゃったね」

それはお父さんの味とは違うのだろうけど、和風の味付けで、とても美味しかった。