週刊「Friday」(講談社刊)

 1988.5.13

 

『山水画』にカメラで挑んで「2万枚」

『黄山』に魅せられた中国人の「夢」

 

東京芸大へ留学中の汪蕪生氏ガ17年かけた執念の成果を世界へ初公開

 

「黄山を撮るのは、真剣勝負。二度と同じ写真ガ撮れないほど気象の変化ガ激しい。3ヵ月も山にいて、一枚も撮影できなかったこともあります。」

黄山とは、中国・安徴省南部にある峰々の総称である。広さ1千200平方`、72の峰々からなり、主峰は1千841mの光明頂だ。氷河時代の氷食による懸涯絶壁の連なりや雲海によって、天下の奇観を呈しているのである。

その神秘的なまでの美しさは、冒頭で写真撮影の困難さを語ってくれた中国人写真家・汪蕪生氏ガ手にした3校のパネル写真から、十分に感じとっていただけるだろう。ま、中には、「確かに美しいが、背景の襖絵に比べるねエ」。なんてしたり顔をする人もいるだろうが、それは早くトチリというものだ。

ここ横浜市・勧行寺書院の襖には、汪さんガ撮影した黄山が、印画紙のまま使われているのである。まさに、一幅の絵と見違うほどの見事さだが、それ故に汪氏の写真を、「現代中国の山水画」と評する人もいるほど。

「黄山は、日本ならさしずめ富士山にあたる、中国人の精神的な支えなんです」と、汪氏。この山に彼ガ魅了されたのは17年前のことだ。大学を卒業した後、地元の文化会館のカメラマンをしていた時に初めて見に行ったのがきっかけだった。「見た瞬間、電流が体の中を走ったような感動を受けました」と汪さんはいう。以来、彼は仕事のかたわら黄山を撮るようになり、葛飾北斎が「富岳三十六景」で富士山を描さ続けたように、黄山を撮り続けるようになったのだ。17年間に撮った作品は、実に2万点にものぼる。「写真もまた一枚の絵」という彼の作品を讃える声は多い。「(日本画壇の重鎮)東山魁夷、加山又造両画伯も支援してくれています」と、汪氏は笑額で語る。

81年、写真の勉強のため来日、アルバイトの金をすべて写真に注ぎ込み、3年後再び黄山を撮るために帰国した。旅館に泊まり込み、朝4時に起床して日の出を待ち、日没まで撮影を続けたという。刻―刻と変化する黄山を撮るため、シャツターチャスがある時には山の中を走り回って撮影したため、寝込んだこともあった。その努力は、85年のコダクルーム 50周年記念グランプリ受賞となって報われた。

ところで、日本水墨画の大成者である雪舟は、水墨画の本場、中国の留学体験ガら大きな影響を受けたといわれる。今年秋の写真集の出版と展覧会に向けて留学先の東京芸大で研鑽を積む汪氏。彼の“夢”「20世紀の山水画」の成果はいかに――