汪蕪生・インタビュー
                                             2005.04. 《Art Top誌》

黒と白の間に広がる「胸中の山水」

山水写真家 汪蕪生氏

プロフィール
わん・うーしぇん。山水写真家。中国安徽省蕪湖市生まれ。安徽省師範大学物理学科卒業。1973年報道写真専門通信社の専属カメラマンになる。74年から黄山を撮り始め「人民日報」「中国画報」に作品を発表。81年中国で初の写真集を発表後、日本へ留学。83年に日本国際交流基金の研究員となり、日本大学芸術研究所で研修。86年東京芸術大学で研修。88年西武美術館で初個展、写真集「黄山幻幽」(講談社刊)発表。98年ウィーン美術博物館で現存芸術家として初の個展を開催し成功を収める。05年12月14日には、国連60周年記念展として、ニューヨーク・国連本部展示ホールにて、「東洋の心――山水の美」と題して東山魁夷作品と共同展示を行う。

墨の巧みが生み出した濃淡の妙、水墨山水画
     その神域に汪蕪生氏は写真で挑む
悠久の霊山・黄山を舞台にする山水写真家か、
東洋の心の極みともいうべき境地を語る

宇宙と歴史を体感した黄山

Q 撮影の舞台にされている黄山とはどんな山ですか?

汪 黄山は、いわゆる怪石・奇松・雲海が千変万化するすばらしい景観で、中国では知らない人がいないほど有名な山です。三十一年前になりますが、報道カメラマンだったころに憧れの黄山に登ったんです。山頂に立つと雲海が広がっています。まるでそこが雲海に浮いている島のようですよ。私ひとりがそこに立っている。宇宙を感じましたね。大学で物理学を学んだときは方程式で宇宙を考えていましたが、黄山では宇宙を、無限な広がりを肌で感じられたのです。「私という存在はなんとちっぽけなものか」と。

あとは歴史ですね。一億年前の岩や、辺りに生えている樹齢千年以上の松、そういったものに触れられる。私がいくらがんばって生きたところで八十年、九十年しかない。何億年という時間の中では私なんて一瞬でしかないですね。

Q 宇宙という空間、歴史という時間の広がりに圧倒されたと。

汪 そう、そこで私の人生観は確立されたかな。一生芸術にかけていこうと。アーティストにとっていちばん大事なのは、表現のために題材を選ぶことですよ。私は黄山に出合えた。もちろんテクニックも重要ですが、それをもって何を表現していくのか。モチーフ、題材はもっと重要です。複雑な解釈が必要なものは私の目指すものではない。芸術は心で感じるものだと信じています。簡単にいえば感動。泣いたり、ドキドキしたり、夢中になったり、それが芸術です。そのためには、まず本人が感動しなくて、感動が作り出せますか。黄山というモチーフは、私が選択したのではなく、黄山に選ばれたと思っています。もう命をかけて、人生をかけて撮るしかないと。

Q 汪さんにとって山水とはなんでしようか。

汪 自分の写真に勝手に「山水写真」と名前をつけたんですが、実は、それほど意識することなくここまでやってきました。ただ、あえていうなら山水とは私の心の中の宇宙じゃないでしょうか。中国の言葉でいうと「天人合一」。西洋の考え方では自然と人間を対立させています。東洋はそうではありません。人間は自然の中の一部分ですよ。自然なしに人間の存在はありえません。これは中国の文人にも日本の文人にも共通した山水観でしょう。

あるいは東洋的な表現ならば「気」、つまり、命の存在の形ですね。生命、エネルギーの存在の形、見えないけれどあらゆる所に存在しています。そこで相互の気の循環が起こる。私はこれを「気場」と名づけました。黄山に立ったとき圧倒的な気場を感じて、私の気はその中に完璧に溶け込んでしまった。私の気に非常に大きな影響を与えたんですね。

Q 汪さんの作品からも強い気が感じられますね。

汪 ええ、よく言われますね。ヨーロッパでも中国でも日本でも。どこの展覧会でも、ほとんど毎日観に来る方がいるんですね。単に作品を観るというのではなく、その空間の中に身をおいて何かを感じている。私の作品とコミュニケーションをしているような。感想ノートの中でいちばん多いのが「吸い込まれるよう」というものです。「気」の存在を感じているんですね。私の芸術観に共鳴していただくことで、芸術的なプロセスがひとつ完成するわけです。

黒と白の無限のグラデーション


汪 東洋の美術でいちばん惹かれるのが「墨」ですね。私の写真は完全に墨のイメージです。なぜ墨が好きか。これは東洋人の哲学と深く関係しているんです。そこにはまさに山水の思想というか、「墨の思考様式」があるんです。私の展覧会にはいつも墨で 「黒白魂」と書いたものを掛けています。

世の中は、陰と陽で成り立っているのですが、百パーセントの黒も白もなく、すべてこの黒と白の間に存在します。黒か白かではない、無限の微細なグラデーション。その変化の妙とは何か。バランスですよ。日本語でいう節度、中国語でいう中庸。いかに黒と白の中にバランスがとれるか。

一九八八年に最初に出した『黄山幻幽』という写真集の解説で、評論家の森本哲郎さんが「汪さんの写真は気韻生動がすばらしい」と書いてくださいました。気韻生動。これは中国の美術の中でもいちばん大事な言葉です。油絵でもなんでも気韻生動がなければすばらしい作品とはいえません。では、気韻生動とは何か。私の写真では黒と白の配分がそれにあたるのです。

真実を写し出すメディア


汪 以前はカラー写真や、モノクロでアンセル・アダムスのようなディテールの表現も試みたんですが、どうしても満足できない。黄山という対象を十分に表現することができませんでした。どうすればいいか、試行錯誤がありました。そして最終的にこのスタイルに定着したわけです。

Q 発表当初の反響はいかがでしたか?

汪 この山水写真を発表した当初は酷評されたものです。「あんなものは写真じゃない」「この黒くつぶれたところは何だ」と。これは写真の基本的な性質からきていると思いますよ。最初は記録メディアとして登場したわけです。表現メディアではなかったんですね。写真は、物理的に真実を忠実に記録するというメディアでしょ。東洋ではまだ、アートとして認識されていなかったんですよ。
でも、分かる人は分かってくれました。まずこれは写真ですから、捏造することはできません。自然の中に実際に、こういう風景があるんです。その中で私が自然に見た風景というものの真実、むろん百パーセントの真実ではありません。人間には必ず主観が入ります。そこにあいまいな領域があります。視覚というものはけっして客観的なものではない。ある種のフィルターを通しで見ています。私が黄山に立ってその景色を見る。これは私にとっての真実です。これを心の中で昇華して、フィルムというメディアを使って完璧に記録する。その上でいちばん大事なプロセスが、どういう瞬間を選ぶかです。

「胸中の山水」を再現する


汪 私の表現にとってもうひとつ重要なプロセスは暗室作業です。非常に時間をかけます。たとえば三カ月かけて撮った写真を焼くのに、何年とかかることもあります。私が現場で見た景色を、いかに印画紙によって再現できるか。私が見た瞬間のイメージは私の人生の経験、美意識、私のすべての主観的なものによって、心の中の山水、「胸中の山水」になったんですよ。暗室作業によって、いかに私の「胸中の山水」を表現できるか。いろいろな素材を掛け合わせて、いかにイメージを表現できるか。いろいろな硬さの印画紙を試してみたりと、時間が必要なわけです。

Q 以前に「絵は絵の具で措く。写真は光で描く」とおっしゃいましたね。

汪 基本的に本質がまるで違う。絵を描くことは、限度のない自由を持っています。絵は自分のイメージさえあれば、絵の具を上手に扱えれば、好きなように描ける。写真はそうはいきません。現実の中にその景色、その一瞬がないと。捏造はできないのです。写真と絵のひとつの違いは「真実」。きわめて重要な要素です。合成したりコンピューター処理したものは、私は写真として認めません。
しかし同時に、心の中に私自身の「絵」も持っています。私は写真という自己表現でそれを存分に発揮したいと思っています。これを「写意」といいます。意を写すこと。これは中国のアーティストにとって非常に重要なことです。写真というメディアを使って、写意していく、これが私の「胸中の山水」です。

Q 当然、山水画とも比較されるわけですが。 
              
汪 東洋人の心の中には、昔からそういった美意識が生きていますからね。私自身、特に真似しようとはしていないし、伝統的な山水画と比べると大きな違いがあります。ですが、基本的な美意識には共通の文化がある。

中国の美術評論家が言ってくれました。「中国の山水画は明の時代以降、行きづまっている。何十年、何百年も次の表現を探し続けたけれどうまくいっていない。それを汪さんは印画紙を使ってうまく表現されたんですね」と。

「留白」が与える余韻


汪 山水の表現で重要なのは余白を残すこと。ここに見る人の想像力を誘発するものがあります。いろいろなものが見えるんです。中国では「留日」といいます。わざと白を留める、残す。現代人はありあまるものの中に埋もれています。でも、それで本当の豊かさを感じているわけではない。アートの表現も同じです。すべてのものを人に与えようとしたら、結局何も与えられない。シンプル、簡素、そこに東洋の墨画のカがあるのです。

中国の漢詩、李白、杜甫、白楽天。彼らの詩が何千年も経って、どうしてカをもっているんでしょう。日本の俳句、短歌。蕪村、芭蕉、ほんの何文字かのものが、なぜそんなに感動させられるのか。
答えは、モノクロ表現のなかにあります。すべての色を消してしまう。あえて惜しいと思ったものをすべて消してしまう。いくら枝振りのすばらしい松でも、私の画面、「胸中の山水」に余計なものだったら消す。アンセル・アダムスのような繊細なディテールでもあえて消す。あえて消せるか、消せないか。アーティストには大きな判断力が求められます。人々に再想像の空間を与えないといいものとはいえません。

日本を撮りたい


Q 日本の伝統美術についてはどう見ていますか?

汪 非常に驚き、感心しました。お寺の建築様式など、もともとは中国から来たものですが、中国ではそういったものが大事にされていません。日本は外国文化の取り入れ方が非常にうまいと思います。自分なりにアレンジして、独自の文化を作り上げている。そこに非常に感心しました。

Q 横山大観の作品に共感されたとうかがいました。

汪 非常に私が感じているものに近い。例えば、大観の「白雲春恋」などの作品に、黒い山があり、白い雲が流れています。構図や表現の方法に違いはありますが、なぜこんなに同じ思い、同じ感性を持っているんだろう、と驚きました。

ほかにも、竹内栖鳳や菱田春草、東山魁夷など、多くの画家たちから感じる、日本人独特の繊細な美的センス、繊細な色使いに感銘を受けましたね。

Q今後、黄山以外を撮るようなご予定はあるんでしようか?

汪 以前テレビの取材で和歌山県に行ったのですが、二日間だけ合間を見て、川や海を撮ってみました。時間が十分ではなかったけれど、日本の写真家とはひと味違う写真になったと思います。この美しい国はぜひ時間をかけて撮ってみたいですね。タイトルももう考えてあるんです。『扶桑神領』。扶桑とは日本の異称で仙人の国のような意味です。北海道、京都、素敵なところがたくさんあって、私なりの表現ができると思います。中でも冬の日本海、風花が舞うような景色をね。

                                                                                                                                                                      (汪写真工房にて取材   一戸 厚)