汪蕪生・インタビュー
                                            2003.3《CHAi》

「黄山は天の与えたテーマ、だから撮り続ける」

清らかな白い雲海、その中に聳える漆黒の山々――

汪蕪生(ワン・ウーション)さんは、中国の名峰・黄山(ホワンシャン)をテーマにした作品で世界的に有名な写真家である。

現存する芸術家として、また写真家として世界で初めて、

欧州3大美術館のひとつウィーン美術史美術舘で個展を開催した

汪さんは、日本を拠点とするようになって20年。シンプルかつ温和な語り口で、自らの芸術を、中国を、そして日本を語る。

――写真を始められたきっかけからお話しいただければ。

小さいころから絵や音楽、演劇など芸術が好きだったんです。ですけれども、大学の専攻は物理。当時は、成績優秀な若者は理工系に進んで国家の発展に尽くすという時代でしたから。それで、私も安徽師範大学の物理学科に進んだというわけです。

――意外なご経歴ですね。

負けず嫌いなので、周りに負けたくなかったというのもあって。でも、やはり入学してからすごく後悔して、大学を出たら芸術に関わる仕事をしたいと思った。卒業した時はまだ文化大革命の最中でしたが、自分のめざしているところにいかないと満足できない頑固な性格なもので、なんとか地方の有線放送の編集の仕事に就きました。ところが、芸術界は美大や音大卒ばかりで、チャンスをもらえない。そんななかで、写真に興味をもって、独学で勉強して地方文化会館のカメラマンになったんです。

――文化大革命時代ですと、資機材などでご苦労されたのではないですか?

そうでもなかったんです。文革のリーダーだった江青女史は芸術全般がお好きで、写真の愛好家でもあった。だからカメラマンには、ライカなど高級な機材が支給されましたし、フィルムも比較的自由に使えました。

――ただ、先生の作品は報道写真とはずいぶん異なる感じですけれども。

そうでしょう(笑)。だいたい、私はカメラマンを全部フォトグラファーと呼ぶのが納得いかないんです。フォトアーティストもいれば、フォトジャーナリストもいる。だから、名刺の肩書きはフォトアーティストにしてあります(笑)。もちろん、ドキュメンタルな作品にも興味はありますけれど、やっぱり自己表現がしたかった。そんな時に、仕事で黄山を撮影する機会に恵まれたんです。

――まさに運命的な出会いだった。

ほんとうに衛撃を受けました。言葉では表現できない深い感動というか、人生まで考えさせられるような景観。宇宙や歴史を「理解」させるのではなくて、「肌で感じさせる」場所なのです。ですから、これを一生のテーマにしようと決めました。これだけを満足のいくように撮れればいいと。

――それでフリーの道に進まれることになったのですか?

そうです。報道の仕事をやりながらでは、なかなか撮れないし、いつもジレンマに陥っていました。上司にも「何撮っているんだ。しっかり仕事しろ」とお叱りを受けたし。その後、中国国内で少し知られるようになったのですが、もっと新しい世界の芸術を見たい、作品も世界に発表したいという気持ちが強くなって、80年に日本にやってきました。すべてを捨てて、ゼロからもう1度やるつもりで。

――来日することへの不安や反対はなかったですか?

日本へは、留学する前に2カ月ほど観光でやってきて、その時に甘いものではないということはわかっていました。それでも、やれるという自信はありましたし、父母も幸い、自分の生き方は自分で決めるという考えでしたから、反対はしませんでしたね。

――来日後も、やはり黄山にこだわり続けていらっしゃった。

今から考えると、黄山をテーマに選んだのは、非常に危険でしたげれと。昔から詩人や画家が繰り返し取り上げている有名な場所ですし、カメラマンでも黄山を撮っている人は多いのでアピールしにくいんです(笑)。でも、私は単純だから、芸衝というのは自分の感動を伝えもの、と考えています。自分が感動もしていないのに、他人を感動させられないでしょ。だから、テーマの選定というのはアーティストにとって大切なのは確かなんですけれど、黄山は天が自分に与えてくれたもの、
小ざかしく考えても仕方ないと思って撮り続けてきました。

――モノクロのシンプルな作品が多いのは水墨の影響があるんですか?

若い頃はむしろ油絵や水彩のほうが好きだったんで、とくにそういう訳ではないです。ただ、表現はシンポリックになればなるほど、伝える力が強くなります。日本でも、俳句や能のような芸術があるし、中国の水墨もそうでしょう。だから、東洋人としての魂が、私にもやっぱりあるのだと思います。わびさびのように、余計なものをそぎ落として、必要最小限の情報・表現を求めていくような。

――シンプルイズベストという。

カラー写真も撮ってはいるんですよ。点数としてはむしろモノクロより多いぐらいに。ただ、今はまだ自分としては作品になっていないので、発表はしません。最近は、デジタルな操作で新たに要素を加えることもできますから、もし自分の表現したいかたちにできれば考えますが、今はまだモノクロの表現力に及びません。

――そうした汪さんの目からみて、現在の中国の文化や街はいかがですか?

やはり、それほどいいとは思えません。色彩や情報に翻弄されている感じがします。ただ、これは仕方ないこと。私もそうですが、人間はいろいろな失敗をしないと学ぶことができません。それは日本も同じです。中国は改革開放後、まず香港や台湾の文化を受け入れましたが、言葉は悪いですけれども、香港や台湾は欧米や日本文化のゴミみたいな部分も多く吸収しています。ですから、中国に香港や台湾のゴミ、欧米や日本のゴミのゴミ(笑)が数多く入るのは、順番としてやむをえない。

――富裕層では、優れたセンスをもつ人も増えているのではありませんか?

まだまだごく一部です。富裕層は白領(ホワイトカラー)と成金が中心ですが、後者が文化的に影響力をもつことをかなり懸念しています。お金は力ですから、彼らが、文化に対して大きな影響を与える可能性は高いのです。

――中国のカメラマンについてはどうお考えですか?

それほど詳しく知っているわけではありません。ただ、これも仕方ないことなのですが、才能のある多くのカメラマンが、ビジネスの分野に流れていってしまいました。お金になるコマーシャルフォトなどへね。もちろん、芸術として写真に打ち込んでいる若い人もいますが、とても少ないと思います。

――20年以上お住みになっている日本という国はどのように見えていますか?

中国と日本と足して2で割ると、世界最高の文化ができるんじゃないかと思いますよ(笑)。中国は個人主義だし、自己主張も強い。日本は逆に和の文化で集団のパワーがあるけれど、個性が足りない。現在は、個性が必要とされる時代だから、鎖国でもしない限り、変わっていく必要はあると思うけれど、大切な部分まで変える必要はないでしょう。短所は長所なのだし、私の写真と同じで、白があるから黒が際立つという陰陽の関係なのです。

――悪いとなったら全否定に走るのが、日本の悪い癖かもしれません。

日本は、歴史的に外国に対していつもコンプレックスをもっているけれど、大切なのは平常心。平常心で判断して、いいところは取り入れ、自国のいいところは守っていけばいい。ここ10年はほんとに歯がゆいです、日本にいて。文化大国をめざせば、絶対に成功する豊かな伝統と素養があるんですから、自信をもって欲しいです。

プロフィール

中国安徽省蕪湖市生まれ。1973年、安徽省新聞図片社のカメラマンとなり、74年から黄山を撮り始める。81年日本に留学、83年から日本大学芸術研修所、86年からは東京芸術大学で研修生活を送る。90年に渡米し、約1年間、ニューヨークで生活。個展は、88年西武美術館、93年日本橋三越本店、94年北京・国立中国美術館、95年上海美術館、97年、オーストリア・クレムス美術館、98年ウィーン美術史美術館など多数。2001年東京都写真美術館で20世紀を代表する世界のフォトグラファー10人の一人にも選ばれた。