松岡正剛(編集工学研究所所長)
2005.10. 英文版《天域-中国黄山》序文

写真の山水

東洋の方法が奇跡的に蘇っている

松岡正剛 Seigo MATSUOKA
編集工学研究所所長

太古の時間と未来の自己がつながっていた。そこには中国の山水画の伝統が生かされ、なおかつ、現代美術の感覚にぴったりの“写真山水”が出現していた。私は腰を抜かすほど驚いた。最初に汪蕪生(Wang Wusheng)の黄山の写真を見たときの感想だ。中国の山岳を撮った写真は数々あるけれど、こんな写真に出会ったことはなかった。私がしばらく探しあぐねていた「胸中の山水」が、そこにあったのだ。

東アジアでは、風景のことをしばしば「山水」(日本語ではSansui中国語ではshanshui)と言う。山と水という漢字2文字を使う。山水はたんなる風景のことではない。どこにでもある風景ではない。そこに崇高な山があり、そこに瑞々しい水が流れている場所(topos)のことを言う。高次の精神や深い意識をそこに投影することができる自然景観のことをさしている。山水はただの自然ではない。すぐ忘れてしまうような風景ではない。山岳や河川と自分の精神や意識をすっかり交換したくなる風景が、東洋の山水なのである。心の奥に光り連なる「胸中の山水」なのである。

日本中世を代表する禅僧の一人だった道元(Dogen)は、『正法眼蔵』(Shoho-Genzo 眼の奥に真実の法を宿す)のなかに「山水経」という一章をもうけて、「山水を見ていると生まれる以前の自分に出会う」と書いた。生まれる以前の自己とは、時空を超えた自己ということである。その自己はまだ誰も見たことがない「無相の自己」(formless self)だとも書いている。まだ形をあらわす前の自己、それが山水だというのだ。山水とは本来はそういうものなのである。時空を超え、まだ形をあらわす以前の姿を見せているもの、それが中国の山水を見る見方なのである。私は汪蕪生の“写真山水”の前でそんなことすら感じられたのだ。

もともと中国では、山水を山水詩あるいは山水画としてあらわすことが尊ばれてきた。中国の漢詩や絵画の4分の1は山水を描き、山水を綴ること対象にしてきたとさえ言える。とくに山水画は、世界の美術史でも稀有な独自の思想と技法によって「山水の前の無相」を描いた。

ヨーロッパ美術史に純然たる風景画が自立したのは、アルブレヒト・アルトドルファー(Albrecht Altdorfer)が1532年にアルプスのスケッチを描いたときだった。それから300年をへて印象派が登場した。印象派はフリードリッヒやコローがそうであったように、さまざまな風景画を描いた。ジョン・ラスキンはターナーの絵画の中に風景が秘める微粒子の動きを感じて、おおいに感嘆した。しかし、その1000年前に中国では風景画が成立していたのだ。毛筆と墨と紙を使い、風景の奥にひそむ神々しいまでの気配を描き出した。これが水墨山水画である。

水墨山水画では大胆な技法も開発された。一点透視法によるヨーロッパの遠近法とはまったく異なる遠近法が使われた。たとえば、水平に見通す平遠(heien)、高く見上げる高遠(koen)、深く覗きこむ深遠(shinen)という三つの遠近法を一画面の中に同時に組み合わせて、「三遠」(sanen)という技法を確立した。画人の視線は三方に、鑑賞者の視線は絵の中の全方位に走ったのである。またたとえば、墨と水の使い方にも数々の超絶的な技巧を凝らした。とくに「破墨」(haboku 墨によって墨を破る)と「溌墨」(hatsuboku 墨によって墨を溌ねる)によって、画面上に独自の滲みと無限のグラデーションを作りだしていった。これらの技法によって、現実にはありえないにもかかわらず、いつまでもその絵の中に心の視線をさまよわせることのできる独得の山水世界が描かれてきたのだった。

汪蕪生がこれとまったく同じ方法で“写真山水”を作り出したのではない。絵画と写真は異なるものであり、異なる技法で成り立っている。カメラはこのような三遠や破墨や溌墨を駆使できるわけではない。しかし汪蕪生は、レンズとアングルとプリントの技法を魔術のように組み合わせて、新たな水墨山水画をつくりあげたのである。カメラは毛筆となり、レンズは水墨となり、プリント技術は新たな魔法の画用紙を作ったのだ。

実は中国の水墨山水画には、北方の画人たちの描き方と南方の画人たちの描き方にコンセプトと技法の著しい違いがあった。北の山水は峨々たる峻峰(shunpo 鋭い峰)を好み、南の山水は温和な線を好んだ。これは、中国医学で寒い北方では針が好まれ、。暖かい南方では灸が好まれることに似ている。しかし、ながらくこの二つの好みは交じらなかったのである。
しかし汪蕪生の写真群には、こうした中国に培われてきた山水画の精神がほぼ完全に引き継がれ、しかも北と南のコンセプトと技法の両方が受け継がれていた。そして、そのことが格別の出来栄えで映像化されていた。私が驚いたのはそのせいだったのだ。

このようにして、私は汪蕪生の“写真山水”にしだいに惹きつけられていったのだが、そのうちさらに気がついたことがあった。汪蕪生は日本に活動の拠点を移すことによって、日本の山水感覚を身につけていたということだ。

日本の山水感覚にはおおまかに言って、二つの特徴がある。ひとつは竜安寺の石庭に代表される枯山水(kare-sansui)がもつ感覚である。すでに欧米にもよく知られているけれど、白砂の上に岩石がとびとびに置かれているだけの庭をいう。これを枯山水(枯れた山水)という。こういう石庭は日本中どこにでもある。13世紀から14世紀にかけて最初の一群が出現した。有名なアーティストが作ったのではない。石立僧(ishdate-so)とよばれる下層の庭づくりの職人たちが考案した。したがって竜安寺の石庭も作庭者の名前はわかっていない。しかし、この石庭には驚くべき思想が実験されていた。いわば「水を感じるために水を抜く」という引き算の思想が登場したのである。

水がないのに水を感じさせるにはどうするか。石と砂と植物だけで水の流れや水の音を表現することにした。そのために「水を抜く」という大胆なことをやってのけたのである。日本人の山水感覚にはこうした「負の発想」が脈々と生きている。そのため、この「負」を求めて、人々は石庭の前で目を凝らし、耳を澄ます。

もうひとつは桃山期の長谷川等伯から江戸中期の池大雅の時代に確立したのだが、「余白を存分にいかす」ということである。余白とは何も描いていないところをいう。タブラ・ラサなのではない。白紙にちょっとだけ絵を描いたということでもない。あえて画中に余白を残して、その余白から何かを感じさせようとした。たとえば野原に蝶が飛んでいる。そのシーンを絵にするのに、等伯や大雅は白い画面の下の方に数本の草を描き、そして画面の左の中程にひらひらと舞う小さな蝶を水墨で描く。野原はない。空も雲も描いていない。色もない。しかし、そこには野原を吹きわたる風や蝶の行方すら感じられるのである。

すなわち、日本人は風景の中にさえ余白を発見したのである。それを生かして絵を作った。山水の一部分を描くだけで全景を感じさせる感覚を身につけたのだ。これは芭蕉や蕪村の俳句にも見いだせる特徴である。

汪蕪生の“写真山水”には、こうした日本的な「引き算」と「余白」がダイナミックにもストイックにも活用されている。日本人より日本的であると感じられるときも少なくない。

ストイックなのは、漆黒の造形がつねに画面の要所を占めるように仕組まれていることにあらわれる。あえて滲みやグラテーションを黒く潰した造形を画面の中に作っている。このプリントの方法は中国の山水画や日本の山水画の歴史を一変させる力をもっている。それはたんなる影なのではない。その漆黒の部分には「東洋の無」と「時の沈黙」とが主張されているのだ。

私は、このような“写真山水”を「負の山水」とか「無の山水」と呼んでいる。ここでいう「負」や「無」は何もないという意味ではなく、何もないことの中から何かが生まれているという意味である。「負」や「無」が「ある」ということである。もともと中国には「無為自然」という老子や荘子の考え方があった。これは、自然の中には無為があり、無為の気持ちで自然に向かうことが、真の自然と立ち会えるということを告げている。汪蕪生の表現には、こうした中国独特の老荘思想を背景にしたタオイズム(taoism)の精神も脈打っている。私はボストン美術館に東洋美術部門と日本美術部門を作った岡倉天心にこそ、この写真を見せたいと思っている。

それとともに汪蕪生の作品には、日本思想や日本文化に特有の「引き算」や「負」が生きている。黒々とした山塊はそこが死んだ部分なのではなく、逆に生きている山の生命なのである。写真の中で真っ白になった空は何もない空ではなく、逆にさっきまで嵐が吹き抜け、しとどの雨が降りまくり、いま太陽が光を浴びせた空なのである。

こんな写真は稀有だった。中国の伝統と日本の伝統の二つの東洋の感覚を交ぜ合わせることができた汪蕪生にして初めて可能となった写真であった。