汪蕪生・インタビュー
   2000.08.03「鑑真和上と世界の写真家展」図録

日本文化の原点を写し出す奇跡な写真展

20世紀を代表する10人のカメラマンが世界から集い、
鑑真和上を、唐招提寺を、まったく新しい視点から撮り下ろしました。
世界がいま、驚きの目を見張る。

Sheila Metzner (アメリカ)、Bohnchang Koo (韓国)、大西成明(日本)、汪蕪生(中国)、荒木経惟(日本)、
Bernard Faucon (フランス)、Joan Fontcuberta (スペイン)、Mike and Doug Starn (アメリカ)、
Wim Wenders (ドイツ)、植田正治(日本)。

(2001.8.31 Fri - 9.20 Thu.東京都写真美術館)

汪蕪生Wang Wusheng:

中国安徽省蕪湖市に生まれる。安徽師範大学にて物理学を学んだ後、1973年安徽省新聞図片社のカメラマンとなる。1981年、日本へ留学、1983年には日本国際交流基金研究員となり、日本大学芸術研究所(1983)、東京芸術大(1986)にて研修の後、1989年、東京女子大学比較文化研究所の客員研修員となる。1990年渡米、約1年間ニューヨークに滞在。以来フォトアーティストとして国際的に活躍、高い評価を得ている。1998年にはヨーロッパ三大美術館のひとつであるウィーン美術史博物館にで個展「天上の山々」を開催。同展はウィーン美術史博物館における初の現存芸術家の個展として、また初の写真展、初の東洋人個展として、芸術史に画期的な業績を残すものとなった。82日間の会期中には世界38か国から4万人の観客が集まり、その作品は世界中の人々に深い感動を与え、大きな成功をおさめた。

――鑑真和上像を撮影されて、まず率直な感想をお聞きしたいのですが。

W.W:印象というと、まず、あこがれですね、何十年も前から。たぶん、一番最初に知ったのは、二十何年前、鑑真像の里帰りの時。中国全国大騒ぎですね。けっこうニュースとか、いろんなところに報道されて、たぶんそこからかな。それ以前はあまり鑑真和上のこと、存じませんでした。それ以来はずっと、いつか、拝見できればと。だからそういう気持ちですね。あとは、撮影の場合ですね、私、今まであまりスタジオ撮影とかね、照明使っての撮影は経験なかったんです。ほとんどは、自然相手です。人物撮る場合も自然光が一番好きですね。自然にあまり人工的な手入れとかしないようなものが私の好みというか、だから、ぜひ自然光のあるところ撮らせていただきたいとお願いしたんですがけっこう制限されまして。…不安ですね、出来がどういうものになるか。一つ、チャレンジでもあります。

――今回、あこがれをお感じになっていた鑑真和上像と対面されて、この鑑真という方はどういう方だという印象を受けましたか?

W.W:詳しく存じませんが…歴史はあまり勉強していないものですから。たまたま、私も日本にやってきてもう19年になります、ことしで。しかも経歴は全然違ってても、なんか同じように自分の祖国から離れて、この日本の土地に根をおろして、今日までやってきたんですね。そういうところなんか、私なりの思いがあるでしょ。だから最初この厨子をあけて見せていただいて、ああ、その思いがぱあっと出ちゃったんですね。もう、感慨無量。まだ整理できてないんですけど、けっこう胸いっぱいですね。同郷ともいえる、そういうところ、なんか、親しみというか、感じました。

――鑑真和上像を撮るにあたられて、これを静物というか、彫刻として撮影されたのか、それとも鑑真和上というある人物として撮影されたのでしょうか?

W.W:最初に頼まれたときは、さっきいった、そういう思いもあるし、非常になんというか、与えてくれたいいチャンスだなと。ただ、具体的に撮影というと、さっき申し上げましたように、今まであまりそんな経験なかったんですね。人工的な照明で仏像を撮影するのが。ただ、一度チャレンジしたいという思いもあったんです。なぜかというと、日本に来てまず、土門拳の写真を非常に好きになったんですね。とりこになって。ああ、なんていうかな、彫刻というか、仏像、やっぱり撮る人によって全然違うなと。その光とアングルによって仏像というものが非常に表情変わっていくと。特に土門拳の作品に非常に魅せられて、いつか私もチャレンジしてみようかなという、そういう思いがあった。だから非常にありがたく思って今回の企画に参加させていただきました。

――普段は、非常に広大な風景の撮影を得意とされていますよね。それで、狭い堂の中の仏像を撮られて、そういう風景の撮影と、一番大きな違いというのはどこだとお感じになりましたか?

W.W:さっき話したように、やっぱり自然が好きですね。例えば人物を撮影しても自然の光が好きですね。やっぱりあんまりわざとらしいような撮影とか、モデル撮影とかね、どうしても私好きになれないです。そういう場合、例えば、人物であれ、モデルであれ、スタジオ入るとすぐね、ある意味で死んじゃうんですよ。非常にすぐ、照明を意識してしまって、わざとらしく、いいかっこしたりとかね。いくらいい、上手な俳優でも演じているんですよ。本来の心、出てこない。だから、本来の心出てこないものは、写真じゃないんですよ、写真、真実じゃないんですよ。あれは写真じゃない、私そう思っているの。あれ、ほんとに日本語という言葉は非常に素晴らしいね。真実を写すということ。これ、非常にこのメディアの本質をつかんでいるんです。中国ではまた違う、撮影という、日本語と違うそういう呼び方もあるけど、やっぱり日本語、この「写真」ということば一番このメディアのそういう手段の、芸術手段の一つの本質をつかんでいる。だから、写真の分野の中でも、合成したりとかね、手を加える、ああいうもの、私、写真と思ってないですね。あれはね、絵画の分野とか、もっと言い方悪いと、あれはねつ造の世界ですね。私、今までの展覧会、ほとんど、みんな絵みたいだとか、最初、この絵すごいな、とかね、感心してくれたんですよ。そこで私、絵じゃないんです、これ、写真、という。そこでまた、絵以上の衝撃、みんな受けるんですよ。なぜというとね、真実だから。つまり、ある瞬間で、ある瞬間に、この一瞬があったと。そこに人は絵以上に、絵でないことに、衝撃、感動を覚える。これが写真の、不自由でありながらも魅力です。そこで私は自然の真実を、守りたいなと。同じ写真であっても、真実じゃないものいっぱいあるんですよ。そこでいうと、自然は一番、なんていうか、飾りなく、あるいは、わざとらしくないもの、真実ですね。それで、人間の姿もなるべく、一番、本当のところ、信ずるところを撮りたい。私、今までまったく商業的なこととか、そういう撮影ほとんどしなかったんです。非常に自分勝手に自分の好きなことを撮っていました。アートというものね、今、世の中けっこう難しく解釈されて、俺もわからなくなっちゃったんですよ。アートってなんだろうと。私の理解は非常に簡単です。感動です。理屈なしの感動です。今、世の中にあるのは理屈どおりのアートというか、頭でっかちの芸術ですね。芸術はやっぱり皆さんのための存在するもので、専門家のためのものじゃない。昔のミケランジェロとか、やっぱり、一般的なみなさんのためにものをつくりますよ。つまりこころの中の思いね、みんな一生懸命伝えたい、みんないっしょに感動してもらいたい、そういうためにやっているじゃないですか。私、そういう認識を持っているから、まず本人が感動しないと。自分の思い、自分の感動をいかに作品を通じてみなさんに伝える、どこまで伝えるか、そこね、芸術だなと思う。

つまり、人間は表現、自分の思い、自分の感覚を表現するときにはね、持っている手段、きわめて制限されているんですよ。まず、言葉ですね。実際は言葉、人間の持っている思いを、あるいは感覚を、フィーリングを、ほんのちょっぴりしか伝えられない。言葉というものはね、非常に貧弱ですよ。そこには芸術が存在する必要があった。違う手段で、違うそういう表現の言葉で、みなさん自分の思いを伝えたいと。例えば鑑真和上、最初私、拝見したときのおもい、なかなかね、今の言葉で100%どころか、もう1%も表現できない。そこで、私の芸術必要ですね。せっかく与えてくださったチャンスですから、一つ、チャレンジですから。だから、撮影の現場、一生懸命、やっぱり自分でできるだけのことをして、あと、暗室作業の方で一生懸命。私の創作プロセスは、ほとんど半分以上暗室ですね。だから、いかに自分のシャッター押す瞬間の感動を最後、一枚の印画紙の中に定着させるか、これは私の写真芸術に対する、私なりの認識ですね。なんか、ラボに出すと、これは自分のものじゃないです。あれは、ラボの、プリンターのものです、半分は、少なくとも、ね。だから、最後まで、この色構成、この黒と白の細かく、自分の手よって印画紙に定着させる、やっと自分の作品になった。実際の風景、実際の瞬間をみんなに見て、人によって全然違う。非常に主観的なものですから、視覚芸術は。同じ景色に10人立ったら10人違うように見えるんですよ。だから、いかに私なりのそういう受けた視覚的なイメージを最後、印画紙の上に定着させるか、これ、私なりの個性。私、すべてその中に出てくる。他の人たちはまったく違うもの出てくるはずです。だから、最後にそういう印画紙、プリントするまでやって、本人でやるべきと。これ、私の主張ですね。

――生前の鑑真和上をもし撮影するチャンスがあったとしたら、どういうシチュエーションでお撮りになりたいと思いますか?

W.W:いい質問ですね。今、いろいろ話したようにですね、なにしろ私、今までの撮影、ほとんど、まず、自分が感銘受けないと、感動を受けないと撮影する気にならないんですね。シャッター押したくない、押さない。鑑真和上は、私やっぱり、とても尊敬する人物だと思います。あとは、鑑真和上とお目にかかるチャンスができると、そのかわり自分自身も勉強できるし、人生の勉強とか、いろいろできる。その間にやっぱりコミュニケーションして、相手を知るチャンスも増えていくと。そこから、私なりの撮影がやっとできるかなと思います。

――やっぱり自然光の中で?

W.W:自然光のいい点はあっても、完全に人間が介入しないことはないでしょう。例えば、アングル選ぶだけでも、その自然光の、人工的に私なりのそういう手入れというか、さりげなく、相手、あまり意識せずに、あるところに照明かけたり、それくらいなら、別に許せないとは思いません。大きな自然を相手にすると、なんの手も入れられないですね。ただ、一つ、主観的に、私、待つことができるんですよ。どういうタイミングかを選ぶことできるんですね。神というか天というか、たくさんのそういう景色を私に見せてくださるんですよ、瞬間に、刻々と変化していく。私なりにそういう、待ったり、探したりということができるんです。それは私にできることです。

――このプロジェクトは他のカメラマンの方との、いわば競作みたいなかたちになるわけですけども、それについてはどんなふうにお感じになりましたか?

W.W:私非常にね、感心しましたよ。素晴らしい企画。あえて、こういう企画をやるのは、非常に偉いことですよ。この10人のカメラマン、私はほとんど存じませんです。ただ、一つわかるのは、それぞれ違う国からやってくる。そして、そういう10人それぞれ、まったく違う美意識、違う価値観、違う人生観、それは違う文化の経験持っている人々。そういうようなアーティストを集めて、同じ一つのモチーフをさせるのは素晴らしいことです。なぜかというとですね、こういう唐招提寺と、鑑真和上と、そして、この1200年の歴史ですね。その歴史背負って残っている文化財というものがあって。それをどう見るかというと、展覧会などがあっても、あくまで、観客がそれぞれ自分の思い、自分の持っている予備知識、自分の感じた、自分の眼を通して見ているんですね。自分だけの。こういう企画によって、まったく違う視点から同じものを見ると。一つそれは、異文化の、なんていうかな、一度に違うそういう濃縮したいろんな文化、いろんな民族の、そういう文化と価値観をいっペんで見られる。そこからいろんなヒントを得られるはずですね。それはこれから、21世紀に直面している一つ大事な異文化の交流、国際交流、あるいは、各民族の間の交流と友好ですね。非常に役に立つんじゃないですか。唐招提寺と鑑真和上が非常に貴重なそういう歴史の遺産として存在しているんですが、その中に人類の知恵が含まれている。我々、もう来年21世紀に入るんですけど、来る100年、21世紀はどうやっていくべきか。だれでもそういう問題直面しているんです。そして、今、人類は数え切れない難問に直面している。大変非常にね、危険な状態に面してい‥‥‥へたにやると、もう人類そのもの終わってしまっちゃうよ。もうそろそろ最後の時、迎えるんですよ。あと、何百年ぐらいですよ。物理的にそうなっているんですから。別に大袈裟な話じゃないんですよ。だから、これからの100年、非常に大事です。下手にこの100年やるとね、人類ほんとにそうなる。もし、そういう危機意識あればね、頑張って、100年たって、次はまた、楽観的に見られるんです。その中でやっぱり、新しく、なんていうかな、我々が直面している状況をもう一度はっきり見てもらいたいんです。そして次の100年、次の千年やっていく基本的なコンセプトというか、哲学というか、早く見つけ出さないと、もう。そういう一番肝心なところで、こういう企画をやるのは非常に大事な時期。タイミングが絶妙。つまり、これは、今までの、1200年の歴史を振り返ることです。そこから近代という時代に忘れられた、あるいは捨てられた、大事な文化、大事な哲学、大事な人類の財産がある。そこをもう一度振り返ってみて、そこからいろいろヒントが得られるはず。つまり、次の時代を迎える新しい理念、新しいコンセプトつくるため。だからこの企画すごいな、素晴らしい。

――作品を拝見すると東洋の眼というものを感じるんですけれども、ご自分が中国であれ、日本であれ東洋の文化というものを、写真に反映しているというふうに思いますか?

W.W:今人類が直面している大事なことの一つは、新しい価値観つくることです。この100年の間に私たちが浸ってたのはほとんど西洋の価値観です。もちろん、素晴らしかった。だから、今日こんなに繁栄した物質文明がやってきたんです。ただね、あれだけだめですね。なんていうか、人間は自然に勝てないんですよ。いくら人間の知恵よくでも、自然を100%把握することは不可能です。だから、今、科学が万能という妄想があります。万能じゃないと思いますね。あくまで、一つのアングルからだけ。たまたま、このアングルから見て、正しかったんですよ。ただ、あくまで一アングル、一視点だけです。他の視点から、見ることも可能です。我々は、東洋人ですね、何千年の歴史があって、まったく西洋の価値観が入ってこなかった時は、すでにきちんと東洋的な価値観とか哲学を持っていたんですよ。うまくやってきたじゃないですか。ただ、西洋の価値観が入ると、東洋が遅れているものとして全部排除された。これからの100年、これからの千年、生きていくために、新しい価値観、新しい哲学求められている。その中、一番大事は、やっぱり、もう一度東洋の哲学、昔のすでに捨てられてきた東洋の昔の知恵、今一度見直すべきと。その中にいっぱい宝物あるんです。それと、私、東洋人である劣等感まったくないんですよ。西洋は素晴らしいところがある。東洋もそう。対等。そういう考え。私、別に山水か墨絵の真似するつもりもないし、たぶん、もともと東洋人ですから、からだの中、遺伝子の中に自然に東洋的な美意識ね、含まれてるんじゃないか。いろんな試行錯誤の末で、こういう表現は私は一番、自分の感動を伝えることができる。私の持っている東洋的なものが、自然の写真の中に出てきた。と同時に、まったく新しいもの、西洋、特にヨーロッパでね、完全に異質的な新しいもの、芸術的な試み、これ、やっぱりあくまでも20世紀の人間だし、西洋の教育も受けたし、西洋的なものの中に出てきた。例えばですね、みんな墨絵、墨絵といっているけど、全然違う。もちろん、構図も違うし、特にね、墨絵という材質の紙と筆。それではああいう強いコトラスト、まず出せないんですよ。どうしてもそこまでいかないと自分の感動を表現できない。それはやっぱり、この時代から得たものではないかな。非常にリズム感のある、しかも、はっきりしたそういうコントラスト、それから微妙なグラデーション。自然に東洋と西洋の文化を両方吸収して、自分のものになって消化して、そうした自分の思いをそのままに、芸術して、出したら、そこは、自然に、東洋と西洋の融合になると思います。