森本哲郎(文明史評論家))
          2000.04. 東京都写真美術館『汪蕪生展』図録解説文

黄山の気韻

山は古代から、さまざまな民族によって信仰の対象とされてきた。しかし、なかでも中国人ほど山を意識しつづけてきた民族はいない、と言ってもいいのではなかろうか。それは山の相貌をあらわす言葉の数からも察することができよう。

たいていの民族は、山を意味するごい語彙を、せいぜい二つか三つ持っているにすぎないが、漢語には、おびただしい数の表現がある。山がどのような姿を見せているのか、中国人はその性格、形態、状況に応じて、じつに多くの言葉をつくりだしてきた。

たとえば、梁(りょう)の画家・荊浩(けいこう)の画論には、こんなふうに定義されている。尖(とが)った山は「峰(ほう)」、平らなのは「頂(ちよう)」、円いのは「巒(らん)」、つらなった山々は「嶺(れい)」、山中に路があるものは「谷(こく)」、路なきものは「峪(よく)」、峪のなかに水が流れているのは「渓(けい)」、水をたたえているのは「澗(かん)」……(『筆法記』)。さらに他の画説によれば、神聖な山は「嶽(がく)」、山頂は「巓(てん)」、小さいけれど高い山は「岑(しん)」、洞穴の多いのは「岫(しゆう)」、大きくて高いのは「崇(すう)」、頂上に近いあたりは「翠微(すいび)」、ふたつの山が重なっているのは「英(えい)」……。

何という微に入り細をうがった表現であろうか! これほど丹念に山のたたずまいを観察し、それを言葉であらわした民族は、ほかに見られまい。それは、中国人が山を信仰の象徴としてとらえているだけではなく、同時に、美の対象として、精神的に向かい合っていることを語っている。

それを何よりも端的に証(あか)しているのが、この国に連綿として描きつづけられてきた山水画であろう。中国では、寺院の壁面はもとより、大会議場や官邸の応接室からホテルのロビー、飲食店、果ては小さな店舗のほんの一角にさえ、大小さまざまな山水図が掛けられているのを目にする。それは、たんなる風景画なのではなく、自然の奥にひそむ神秘を墨に托した“宗教画”のようにさえ思えてくる。じじつ、中国人は山に仙境を夢見ているのである。

だとすれば、中国文明の本質は、山を抜きにしては語れまい。中国の心は山に結晶していると言ってもいいほどだ。げんに長い中国の歴史のなかで、歴代の皇帝は山々をめぐり、祭祀を執り行なうことによって「天子」となった。その神聖の山とは東嶽の泰山(たいざん、南嶽の衡山(こうざん)、西嶽の華山(かざん)、そして北嶽の恒山(こうざん)である。この四嶽に中嶽の嵩山(すうざん)が加えられて「五嶽」と称され、皇帝はその五嶽のうち、まず、東嶽の泰山で封禅(ほうぜん)の儀式を行なったのである。「封」とは山の頂きに祭壇を設けて天を祭る行事であり、「禅」とは、ふもとに土墻(どしよう)を築いて地をまつ祀ることだ。

こうして天子は天の命を受け、地上を統治する資格を得る。そして、それがすむと、他の四嶽をまわって祭祀を行ったが、これを巡狩(じゆんしゆ)といった。古代日本の天皇の「国見(くにみ)」は、中国皇帝の巡狩に倣ったものとされている。

やがて仏教、道教が相次いで山に寺院や道観(どうかん)を設けて、多くの山々を名山にしたてていった。五台山(ごだいさん)、天台山、廬山(ろざん)などは仏教の本山となり、黄山、茅山(ぼうざん)などが道教の本拠とされるようになる。

ここで、ようやく黄山に達したが、その黄山に棲み、この仙境をくまなくめぐって撮りつづけた中国の写真家、汪蕪生氏の作品に接したとき、私はそこに中国文明の真髄を見る思いがした。汪氏は自作を「山水写真」と呼んでいる。たしかに、氏がカメラに収めたのはたんなる山岳写真ではない。まさしくフィルムに焼き付けられた「山水画」である。さきにも述べたように、千数百年来、中国の画人たちは山水画に精魂を傾けてきたが、山に相対するとき、彼らが何よりも重んじたのは写実ではなく、写意であった。いかに巧みに筆を運ぼうと、どれほど技を駆使しても、胸中に造化と呼応する魂魄(こんぱく)がなければ、真に山を描くことができないというのである。だから、画技六法の第一は「気韻生動(きいんせいどう)」とされている。
気韻生動とは何か。この広大な宇宙には陰陽二気が遍在している。とうぜん、山には山の「気」が秘められており、その「気」を感じとって画面に生動させることこそが、山水画の真髄とみなされるのである。では、山の「気」はどこに見出されるのだろうか。北宋の画家・(韓拙)かんせつは、つぎのように述べている。

――そもそも山川の気全般にわたって、雲がその統括者である。雲は深谷より出でて嵎夷(ぐうい)(日の出るところ)に納まる。日を蓋(おお)い、空を掩(おお)い、渺々(びようびよう)として拘束するものなく、晴れた空に昇れば四季の気を顕(あら)わし、曇った日に散れば四季の象(しょう)を生ずる。……しかし、雲の実体は聚散一(しゆうさんいつ)ならず、軽いのは煙(えん)となり重いのは霧(む)となり、浮いては靄(あい)となり聚(あつま)っては気となる。山嵐(さんらん)の気というのは煙(えん)のもうひとつ軽いものである。雲は捲(ま)き霞(か)は舒(の)びる。雲というものは、要するに気の聚(あつま)ったものである。(『山水純全集』青木正児訳)

 すなわち、「気」を帯びた雲こそが、山の神秘を表現する、というのだ。したがって、山にどんなふうに雲が流れるか、漂うか、たれこめるか、ひろがるか、そのような「雲気(うんき)」こそが鑑賞の対象となる。「気韻」とは宇宙の霊である。山ではその霊を雲が代表するのである。汪蕪生氏の作品は、その「雲気」を見事にとらえており、画面にはまさしく「気韻」が「生動」している。

私はこれまで、中国の名山とされている山々をいくつも訪ね歩いた。四川省の峨眉山(がびさん)、山西省の五台山(ごだいさん)、湖南省の南嶽・衡山(こうざん)、山東省の東嶽・泰山(たいざん)、河南省の中嶽・嵩山(すうざん)、江蘇省の茅山(ぼうざん)、また李白の墓がある馬鞍山(ばあんざん)、浙江省の天台山(てんだいさん)、そして江西省の廬山(ろざん)……。
どの山でも私は雲の行方を凝視したものだが、山の真髄を見せてくれる「雲気」というなら、黄山の相貌は、私がながめたどの山よりも、はるかに抜き出るものだった。

雲により山容は刻々と改まる。細雨で煙っていた峰は、つぎの瞬間、全貌を現わし、再び烟雨に霞む。その情景は、とうてい言葉では言いつくせない。その雲気を汪氏のカメラは鮮やかにとらえているのである。それは汪氏の心眼が黄山と一体になって「生動」しているからにほかならない。その心眼とは、王維をはじめとする中国の画人たちが抱いていた「林泉を愛する志」「烟霞(えんか)を友たらんとする願い」の伝統に培(つちか)われたものだ。

黄山は、その昔、?(い)山と呼ばれていた。「黒い山」の意である。黒い山を黄山と改めたのは唐の玄宗皇帝(げんそうこうてい)で、その理由は、神話時代の中国の「黄帝」が、二人の仙人に教えられて、この山で仙術を身につけた、という伝説による。仙翁は黄帝に、「その山は、雲、碧岩(へきがん)に凝(こ)り、気は群峰(ぐんぽう)に冠(かん)たるものがあり、清泉(せいせん)が湧き、奇松(きしよう)が生え、花は見事で、仙人たろうとするのに理想的な道場だ」とすすめたのである。以来、この山は中国人にとって、一度は訪ねるべき仙境となった。

安徽省の南、約千二百平方キロにわたってつづく黄山は、いくつもの峰が連なる山並みをなし、三十六峰、あるいは七十二峰といわれる。山ニ入リテ山ヲ見ズ、という言葉があるが、黄山は逆に、山ニ入ラザレバ山ヲ見ズ、という懐ろ深い山霊を秘めている。私は麓の雲谷寺(うんこくじ)からロープウェイで「北海賓館(ほくかいひんかん)」に至り、この旅宿を足場にして黄山の奇勝をさぐった。

まず始信峰(ししんほう)へ登り、拝雲亭(はいうんてい)から「西海(さいかい)」を臨み、獅子峰(ししほう)をたずね、翌朝は日の出を拝みに清涼台(せいりようだい)へ足をのばした。さらに光明頂(こうみようちよう)から胸を衝く「百歩雲梯(ひやつぽうんてい)」を攀じ登って、かつての文殊院あとといわれる玉屏楼(ぎょくへいろう)へ達し、蓮華峰(れんかほう)、天都峰(てんとほう)に心奪われつつ半山寺(はんざんじ)へくだった。

その景は、まさに筆舌に尽しがたい。だから明末清初(みんまつしんしよ)の画僧、石濤(せきとう)はそれを彩管(さいかん)に托したのである。彼が精魂を傾けて描いた『黄山八勝画冊』がそれだ。日本では、東山魁夷(ひがしやまかいい)画伯が、おなじように黄山を踏破して唐招提寺の襖に『黄山暁雲』の筆をふるった。そして、汪蕪生氏は、山水画の技法である高遠、深遠、平遠という「三遠」を存分に使い分けつつシャッターを押した。

中国の画論によれば、畫(え)とは畫(はか)ることだという。すなわち「物象を心で度(はか)ってその真を取るの意」だとある。とすれば、写真もまたおなじではないか。これらの画人とおなじように、汪氏の作品には山水と撮影者との「気」がひとつに溶け合っている。屏風に仕立てられた汪氏の大作の前で、私が感じとったのは、その見事な画面もさることながら、千数百年来、中国で受けつがれてきたこの国の人びとの山に寄せる「魂魄」であった。

ここに写し取られているのは、黄山のたんなる写実ではない。写意というべきだろう。写意による写実、写実によって表現された写意である。

私は汪氏のいう「山水写真」の本質をそこに見る。黄山の真髄は、ここに集められた汪蕪生氏の作品によって、あますところなく写しとられている。それを言葉で表現するなら、石濤の詩を掲げるにしくはない。

彼はこう吟じている。

黄山是我師   黄山は是(こ)れ我が師

我是黄山友   我は是(こ)れ黄山の友

心期万類中   心に期す万類(ばんるい)の中

黄峯無不有   黄峯有(あ)らざる無し

事実不可伝   事実は伝(つた)う可(べ)らず

言亦難住口   言(げん)は亦(また)口に住み難し