ウィルフリード・サイペル(ウィーン美術史博物館館長)
          2000.04. 東京都写真美術館『汪蕪生展』図録

序文

1998年私ともウィーン美術史博物館が汪蕪生先生の作品展の開催構想は、1997年9月にクレムスで行われた「荘重な山々」芸術展に端を発するもので、私はその展覧会で彼の作品に深い感銘を受け、その作品をぜひハラッハ宮殿で展示したいと考えたのです。汪先生の作品に写し出された山水の美に大変深い感銘をうけました私にとって、この芸術家のしかるべき個展をウィーンに招致すると決めるのに、何躊躇はありませんでした。

写真家の汪蕪生先生は日本在住の中国人で、その作品が持つ風格とインスピレーションは中国に源を発し、94年、95年には北京と上海の美術館で展覧会を開催されています。汪先生がお生まれになった蕪湖市のある安徽省は、上海の西に位置する山の多い省で、その面積はオーストリアの全国土よりもなお広いとのことでございます。また汪先生は、250キロにわたる山並みが連綿と連なり、海抜1000〜2000メートル級の峰が72もあるという黄山の麓で成長されました。こうした環境に育まれた先生の繊細な感受性は、あたかも我々ヨーロッパ人が山に対して一種のロマンチックな感情を抱くように、連なる雲海や険しい岩山、趣深い松の枝振りなどの奇観に大いに共鳴されたわけであります。

汪蕪生の作品は、その繊細なインスピレーションと豊かな表現力、その構図とドラマ性で、彼の卓越したまなざしと写真芸術家としての才能を充分に伝えるだけでなく、ある風景(「天上の山々」ではそのごく一部が再現されたのですが)の印象を凝縮された形で観る者に訴える力をも持っています。そこでは、写真独特の映像言語が直ちに訴えかけてきます。この直接性こそ、「西洋の」鑑賞者に対して、特別な大きな影響力を及ぼすものと思います。どの写真も、「天上の山々」に写し出されたような対峙、すなわち山と雲、静と動、陰と陽の対話に写し出された対峙により、西洋的な意味での自然との精神的な対峙についても、みごとに証明してくれています。

これまで写真撮影は我々ヨーロッパ人の独壇場であり、その意味では汪蕪生先生の作品もヨーロッパの写真芸術史から影響を受けています。しかしまた、先生の作品は東アジアの芸術の歴史と山水のもたらす韻律を含み、中国の水墨画手法を用いて表現されております。

先生の作品を見た人が中国の伝統的な水墨画を連想することは間違いありませんが、しかしながらそれ以上に、汪先生の創作の意図とそれを完璧にかなおうという努力の過程に我々は何よりも驚かされます。山水の美が先生を完璧な芸術的表現の追求に向かわせ、仏教の静謐な境地が先生にインスピレーションを与えたのです。先生は山水の美しさたけではなく、自分自身の理想的な芸術美を追求しているのです。御覧いただけばお分かりのように、一連の作品は時間と空間を越えた唯美主義の世界を追求しています。またそこには、仏教や道教に対する理解が反映され、中国人の持つ「天人合一」という思想も示されています。先生は幼い頃より黄山の風光明媚な景色に抱かれて魅了されましたが、黄山は、神話の世界のような雰囲気をたたえ底知れぬ魅力を持った山で、縦横に連なる山並みと雲海は、アジア人の人々が心に描く天上の理想世界そのものであります。

汪先生の作品が持つ美は、時間と空間を超越する不朽のものであります。なぜなら、それは「天人合一」を追求したものだからです。汪蕪生先生はこうした山水の境地の中に自らの芸術の原型を見出したわけですが、それはましで山水そのものではなく、山水が具現している精気であり、また山水と天上界、つまりアジアの神話の中で語られる、かの仙人の世界との呼応なのであります。ご覧ください、あの雲が果てしない宇宙をたなびく様を! こうした山水に対する神話的な解釈が、幾千万中国人に、仙人の住む天界として黄山への畏敬の念を抱かせているわけです。しかし、結局のところそこは岩山と雲海、滝、松の古木などが織りなす伝統的な水墨画の世界であり、汪蕪生先生の作品中で、それら全てに新鮮さと説得力を持った確かな裏付けが与えられているのです。

しかし現在黄山は観光名所として多くの観光客を集め、そこかしこに石段やケーブルカーが建設されて、ある意味では味気無く変ってきています。従って、汪先生の作品にはさらに永久の魅力を持つでしょう。黄山の魂に対して深く理解し、古来の道家哲学の思想が潜み、さらに山を通して自己のアイデンティティーを認識する……それらの概念は、図録に納められた作品に見出すことができます。

汪蕪生先生はある文化の深層に対して理解することができました。それは、文学評論家唐氏との対談録からも窺えます。今回の展覧会は、我々が全く別の世界を理解する上で大いに有益であると確信する次第です。

1998年に展示された中国の山水をテーマとした写真作品は、私とも美術史博物舘ではこれまでに前例のない展示でございます。この展覧会が、私たちから一見はるかに遠く隔たっているように感じられる黄山の特徴を見るだけでなく、それ以上のものを皆様にお伝えできるものとなりました。汪蕪生氏の作品の風景は、不思議に親しみある懐かしいものと感じられることでしょう。

もちろん、撮影技術で中国伝統的水墨画の美を再現したという点も極めて重要です。これは我々ヨーロッパ人にとって初めて目にするものであり、中国の芸術家がこのような独特の手法で、現代の世界における自己の芸術の方向性や芸術的感銘、アイデンティティー、自己と宗教・哲学との関連性を表現するのを見ることは、我々に尽きせぬ喜びを与えてくれます。

最後に、私自身の魂が感じ取ったこの芸術家の生み出したユートピアが、皆様にも同様の感銘を与えることを望みつつ、「天上の山々」展が東京都写真美術館での展示を大成功を収めるよう心からお祈り致します。ありがとうございました。

ウィーン美術史博物館館長
ウィルフリード・サイペル