汪蕪生・インタビュー
          1999.12.12. 《MANZ V.O.X》(小学館)

汪蕪生の世界

中国・安徽省の黄山を
撮り続けて25年。
山水画を新しい感性で
現代仁蘇らせた写真芸術家

黄山で宇宙を体感し、啓示を受けた写真芸術家・汪蕪生氏の作品は、我々にとこか郷愁の念を抱かせる。そして、被の話には精神的に余分な賛肉の落ちた潔さのようなものも感じさせられる。黄山から降り、日本に渡って18年。日本で出会った人々との交流、オレ流の芸術観、人生観を忌憚なく語ってくれたー。


text by TORU AKIYAMA(STYLE)

山水写真の中の黄山の妙、

そそり立つ峨々たる山嶺、

高く大きい巍々なる霊山

汪蕪生氏の写真は、我々に山水画の世界は実際に存在する風景であることを教えてくれる。

中国古代の水墨画家たちが描いてきた世界を汪氏はどうやって現代に蘇らせたのか・。

「私にとっての撮影日和とは、どんよりと曇って今にも小雨が降り出してきそうな日です。こんな天気の日にこそ、黄山は実に様々な表情を私に見せてくれるのです。もっとも1年の3分の1以上が霧や雨である黄山では撮影日和の方が多いのですが。特に、早朝の日の出の瞬問は格別で、こんな天候が続いている時は、撮影中ベースにしている宿を、麓のチベットモンキーもまだ眠る早朝、足許も暗いうちに、2k近い機材を肩に飛び出します。山頂へと続く道はすでに靄に覆われ、靄には、うっすらと黄山松の影が投げられています。靄のトンネルを抜けた頂きでは、眼前に止まることなく雲がたなびいています。そして次の瞬間まわりの峰が流れる雲に隠れ、山頂はまわりの雲にぽっかりと浮かぶ小島と化し、その時、黄山は黄海となり、私はこの一瞬を独占するという至福の時間を迎えるのです」

l990年に世界遺産にも指定されている黄山は、上海より南西に350km離れた揚子江の下流に近く、安徽省の南部にあり、一山孤峰ではなく、いくつもの峰が連なる山並みを成している。その主峰の光明峰で1841m、もっとも高い蓮花峰で1873mとそれほど高い山並みではない。幻の皇帯「黄帝」が不老不死の薬を作ったという伝説から「黄山」と名付けられた。その絶景は中国の古い詩に「五岳より帰りて山を見ず、黄山より帰りて岳を見ず「五岳(泰山・衡山・恒山・嵩山・華山)から帰った者に普通の山はもう目に入らない、しかして黄山から帰った者はその五岳すら目に入らないーと詠われている。また黄山には「百歩雲梯」と呼ばれる、まるで雲に梯子をかけたような石段が峰々に刻まれている。石段の数は二万二千段とも言われているが、誰がいつ作ったかは不明だ。

「実は黄山を作品の題材とすることは決して賢明な選択とはいえません、なぜなら黄出は日本でいえば富士山のような存在だからです。黄山は中国山水画の題材の5割を占め、残りは桂林が3割とその他の2割で、山水画では使い古された存在なのです。それでもしかし黄山は不思議な魅力を持った山です。“黄山の三奇”と呼ばれる景色、怪石・奇松・雲海に麓の温泉を加え「四奇」とも呼ばれますし、中国では、墨と硯と筆に紙これを文房四宝と呼びますが黄出は古くより、これら文房の宝の山とされています。また黄山一帯には中国民間八大建築法の一つである徽派という独特な屋根を持つ旧家が多数残っていることも有名です。さらには、黄山特産葡萄で造られたワインは国賓専用ワインとなっており、中でも標高1000メートル以下に住むチベットモンキーは、日本猿と同じオナガザル科に属し、その研究は、東アジアでの人類進化の足跡をたどる手助けとなっていて、1985年からば安徽省の大学と日本の大学との共同研究も始まっています。これらが三体となって黄山とその周辺を構成しているのですが、なんだか黄出の不思議な力によって引き寄せられているといったら大袈裟でしょうか」

「初めて黄山のこの山項に立った時は一日ここに立ち尽くしていました。足許には雲と霧と霞、靄から成り、たおやかに流れる雲海、切り立った山岩とその岩肌に根をおろす千年松、はるか眼下にかすかに見えかくれする麓近くの豆粒のような人や橋や家屋。手を伸ばせば天にもさわれそうな峰々、その峰の一つに立つ私という存在。この時私は初めて、宇宙というものを観念でではなく、経験として体感をしたのです。今まで非常に抽象的な概念でしかなかった宇宙というものが、具体的なイメージとして体感できたのです。また、何億年前からの地殻の変動で創られた山肌と1000年以上前からそこにある松に、宇宙と同時に時間と歴史の流れを感じました。そして山の頂きに立ち、まるで宇宙の中心に立っているかのような感覚を覚えるとともに、人間の小ささと人生のはかなさを知り、この一瞬で私の人生観は一変しました、黄山から啓示を受けたといってよいでしよう」

禅は梵語で“しずか”という意でも提えられ、心を静かにして真理をさとることという意であるが、汪氏にとって黄山の出頂に立つことと黄山の姿を捉えることは、多分禅林に行くことと同じ行為なのであろう。

「一日一黄山の山頂に立ったらやることは一つです、それは心を自然と同化させること、自分自身を黄山の自然と一体化させることです。千回黄山に遊べば千回異なる印象と発見があると言われるように、黄山の風景はたえまなく変化し一度と同じ表情を見せてはくれません。瞬時にその表情を変えてしまいます。ゆっくりと自分の心をしずめてゆき自分自身も黄山の自然の営みの一部となった時、初めて黄山の瞬間を捉えることが出来るのです。黄山と自分を対立させては駄目なのです、黄山を客観的に見るのではなくて自分を含め包んでいるものと考えなければ黄山と同化できません。一瞬のうちに雲間から差し込む光や止まることなく流れる雲を捉えることは、技術では決して補えません。忍耐だけでも駄目なのです。芸術的な瞬間というのは、ただ待っているだけや、露光や構図ばかりに腐心していても決して訪れては来てくれません。撮影する者の内面の問題なのです。別の意味で真に東洋的な自由であることです。西洋の自由/リバティは何かしらの束縛から解き放たれおのれおのれるというものですが、東洋的には己が己のままに動くということで、一内面からわき出てくる状態をいいます。この場合、思考ではなく感覚・直感でシヤッターは落とされます」

「私は黄山で誰も知らない自分だけの場所をいくつも持っています。確実に何千年もの間誰も来たことのない場所、誰もさわったことのない岩や千年松。そんな岩や松に囲まれた場所で一日寝ころんで空を見ているだけという時間を過ごします。自分が本当に自由であると思える時問です。これ、私はすごく賛沢で豊かな一日だと思っていますが、こういう日々を送って人は仙人になっていくのでしようか。でもこんな一日が黄山の姿を撮るためにはとっても大切な時間なんです。秘密の場所は他人が来たことのない場所なので、道なんかないんですが、何年も間があいていても不思議と覚えていてそこにたどり着けます。絶対人に教えない自分だけの撮影スポットも当然たくさんあります。私は高いところが得意であるとか好きだとうことではありません。東京の高層ビルなんかで窓際に行くとダメなほうです、しかし、黄山では不思議と全然平気なのです。たとえば前頁の黄山撮影中の写真の足場は、まわりに何もない切り立った岩と岩の間ですが高さは1800m近くあります。本当に撮影中は全然何とも思いません。黄山を撮影している時は絶対に落ちることはない、あるいは落ちても大丈夫という確信のようなものを感じるのです。黄山と一体になっている私を黄山が落とす訳がないと信じているんですがどうでしょうか。私はこれも黄山の不思議の一つだと思っているんですが・・

l979年故ケ小平(当時?歳)が、黄山に登ったときに「こんな立派な山はもっと世の人に知らせなければならない」という一言から一気に観光化がはかられ、現在では中腹にまでロープウェイが聞通し、その乗車日のまわりにはホテルも整備された。今では年間300万人の観光客が訪れる中国有数の観光地となっている。しかし、その絶景は訪れる人の心を掴み、人は夢中でカメラのシヤッターを押すのだが汪氏と同じ写真を撮れる人はいない。ミケランジェロが「私は彫刻しているのではない、石の中の像を掘り出しているのだ」と言ったように、汪氏も「誰にでもその人だけに見える風景が写せますよ」とうのだが。

「私の作品は、よく山水画のようだと言われますが、実はその表現方法は全く違うのです。山水画・水墨画の場合では山の岩肌などの細かい描写に神経を尖らせているのに対して、私の作品では山は真っ黒です。私の表現は対象を非常にシンプルにシンボライズすることでそのものの本質を描ききろうという独特のものです。また作品をシンプルにするということは、見る人に対して想像する空間を与えるということです。見る人がただ受けとめる、与えられるだけではなくて、見る人自身の胸の内でもう一度創り出す空問を提供すること、これは作品を通じた相互埋解の大切なブロセスだと思います」

汪氏のその気韻生動として、三度目にすると心に深く忘れられない作品は、多くの人の心を捉える。日本の政財界にはその作品に魅せられた人も多い。政界では小渕総埋や後藤田元副総理、財界では平岩外四東京電力相談役や瀬戸アサヒビール会長、とくに小山五郎さくら銀行名誉顧問は十数年間にわたって支援している。また、隅谷三喜男元東京女子大学学長や評論家・森本哲郎氏、室伏哲郎氏、日本画家の加山又造氏とも親交が深い。

上海の文化人であった父と、
女性解放の活動家だった母。
そして白己表現欲の強い私

「私の母は、上海が東洋のパリと呼ばれていた華やかなりし頃に、上海上流貴族の家庭に生まれ、当時の中国ではめずらしいカトリック系の学校でレベルの高い西洋教育を受けました。学校を出てからは、家を飛び出し、女性解放の運動に身を投じました。後に魯迅がおこした左翼作家同盟で父と出会い恋に落ちたのです。当時の父は、文芸誌の編集や小説を書いたりと上海の文化人として活動していました。1936牛共産党が延安で政権を取ったときには、文化人として毛沢東に大事にされ、紅軍大学が創立の際に最初の教授として迎え入れられました。しかし両親は共産党には入党しませんでした。

共産主義思想者であると同時に自由主義者でもあった両親は、個人の自由を束縛されることを頑なに嫌ったのです。これが1949年の中華人民共和国建国以降の不遇時代を呼ぶこととなります。父は、工商連合会の書記長という畑違いの職を与えられたんです」

「小さい頃から私は自己表現欲の強い子供で、小学校から高校までで美術・舞踊・音楽・演劇というクラブに所属し、クラブ活動ばかり一生懸命で勉強はあまりしませんでした。12歳の頃からよく近所の学校や工場から頼まれて壁画を描きました。依頼された施設の建物の壁面に描くんですが、それはちょうどニユーヨークやロサンゼルスによくあるウォールアートと同じようなものです。ただし中国の場合、政治色が非常に強くスローガン的なものが殆どです。もちろん報酬があるわけでもなく、描く内容も指定されるのですが、私はまわりが誉めてくれるのが嬉しくてしょうがなくて夢中で描いていました。好評を得ていましたので、壁画の制作は高校2年生まで続き両親を含めたまわりの人間は、私が将来は画家を目指し美術関係の大学に進むものだと思っていました。その頃私自身は、画家とともに俳優にも興味を待っていたのでどちらを目指すか悩んでいたのですが、どちらにしろ芸術関係の学校に進むことに疑いはないはずでした」

「芸術系の学校に行くはずの私が実際に進んだ大学は理科大学です。何故こんなことになってしまったのかというと、高校2年生の時に私は生まれて初めての恋に落ちてしまったのです。相手の女の子は高校で一番の成績優秀な子でした。中国では、成績優秀な生徒は理科系の大学に進みます、彼女も当然理系志望で、もう彼女しか見えなくなってしまっていた私も理系の大学を受験しました。しかし、彼女が合格したのは中国最高の大学で北京にある清華大学、一方の私が合格したのは地元安徽師範大学の物埋学科でした。この時は本当にショックでした。遠く離れた二人の恋は自然消滅するとともに、私は自分がやりたいことからも遠く離れた場所にいることに気付いたのです。この時は芸術大学に再入学する事を決意し、それまでは大学の劇団で活動しようと入団しました。そして私が大学3年生の時あの文化大革命が始まったのです」

「文化大革命ではまず教授陣がターゲットにされ、次に学生の順番ですが、学生の犠牲者第1号が私でした。私の場合は劇団の活動で学内で有名だったので狙われたのです。何か月間もの間私は自由を奪われ、批判され続けました。気が変になりそうになりながらも私はこの期間をなんとか乗り越えました」

「1970年閉鎖されていた大学が再開され程なく卒業となりましたが、芸術大学への再入学は文化大革命のもとでは不可能でした。あんき阜南県文化館のカメラマンを経て、安徽省の報道写真専門の通信社の設立時に専属カメラマンとなりました。中国では絵画と写真は姉妹芸術と呼ばれますが、私自身も写真に美術的な要素を感じ取っていましたのでカメラマンという職業には満足していました。そして、私が29歳の時に通信社の取材で幻の名山〃黄山〃と出会ったのです」

人間本来無一物、
人間死んだら魂だけ
死ぬとき魂が貧しければ
なんにもならない

「黄山との出会い以降、7年間作品の制作に没頭しました。私の制作方法は、撮影期間を集中してとり、あとは暗室でじっくり制作するというスタイルです。私にとって撮影そのものはスケッチもしくは素描であり、暗室こそが真の制作の場所です。画家が絵筆をとるのと同じように暗室では様々な構図や幾通りもの焼き方を試して、部分的に色調整をかけながら作品を完成させていきます。長いものでは暗室作業だけで2年間かかった作品もあります。通常写真といえば、撮った時点である程度完成と考えられがちですが、全く同じネガであっても暗室作業の焼き方で全く違った作品となります。ですから私の作品は写真とはいえ全く同じ作品というものはあり得ません、1点1点違います、そこが楽しみでもあり難しさでもあるのです」

「黄山の作品が人民日報や中国画報という雑誌や新聞に発表されるにつれて、私の中国内での評価は上がっていきました。1981年に初の写真集が発刊される頃には若手芸術家として絶頂にいました。しかし、自分の中では世界に出て自由に創作したいという欲望がくすぶり続けていました。その想いは、中国での私の評価が上がれば上がるほど強くなっていき、とうとう1981年中国を飛び出し日本に渡りました」

「日本を選んだのは、同じ東洋の中で完成度の高い文化を持ちながら、うまく西洋文化を取り入れて国際社会にとけ込んでいるという印象が強かったからです。18年間日本に住んでみてわかったことは、日本の文化と中国の文化は全く違う文化だということです。来日前は日本人と中国人は顔も似てるし、漢字を使ってるし、箸も使っているから、文化も独自のものを待ちながらもさほど違わないだろうという考えでした。しかし、中国の文化は非常に個性の強い“個”というものから成り立っているのに対し、日本の文化は全体的な調和という“和”から成り立っています。日本では和を重んずるところから、突出した個性というものを嫌いますので、芸術家が育ちにくいという上壌がありますが、中国は個人の個性を大切にする国ですから芸術家に対する理解があり、この点では欧米、特にアメリカの実力社会に近いものがあるといえます」

「日本に来てから1988年西武美術館の個展と写真集出版までの7年間はなかなか認められず、私にとって辛い時期でした。この時期を支えて頂いたのは、渡辺義雄日本写真家協会名誉会長でした。渡辺先生は私の作品を認めて下さり、当時名誉教授をされていた日本大学の芸術研究所に私を入れ、日本国際交流基金の奨学生に推薦して下さいました。このおかげで私は、作品の制作場所や金銭的な苦労をせずに済みました。この時期やはり芸術的・精神的な支えになって頂いた方に故東山魁夷先生がいます。東山先生は私が日本で出版する初めての写真集の作品1点1点に色々な視点からのアドバイスをして下さいました。何より私が感銘を受けたのは東山先生の絵に対する純枠な姿勢です。東出先生は“つねに純枠にものを見れるように、いつまでも画学生の心を持っていたいから、弟子も子供もいらない”という氏の一言葉通りの方でした。“絵は人なり、書は人なり”ということを東山先生の姿から学び、“写真も人なり”であると考えるようになりました」

「l988年の初めての個展以降、ニューヨークに1年間滞在したりした後、昨年ついに私の長年の目標の一つであった、欧州での個展を実現することが出来ました。この“天上の山々”と題した私の個展は、ウィーン美術史博物館で82日間の会期で開催され期間中に38か国から約4万人の来場者があり成功を収めました。この個展で欧州の人々に受け入れられたものは何か、それは私の写真の中にある“東洋の心”です。それは“悠久の地”黄山の不思議が、欧州の人々の心を揺ざぶったのです。古いものには深味があります、この深味に不思議があり、この不思議が人の魂を引きつけます。簡単にいえば、この不思議を大切にすることが“東洋の心”です。“東洋の心”とは東洋の人間だけが感じることができる心ということではなく、歴史の古い欧州の人々も当然持ちあわせている感覚であり、西洋人も感じることもできる自然との一体感や不思議の感覚です。中国の山水画を中心とする東洋の美はこの不思議を意境(芸術的境地)として追求してきましたが、今まで西洋文化の中では明確化されていなかったというだけです」

頭でっかちの芸術ではなく、
見る人に感動を伝える芸術を志したい

ウィーン美術史博物館(ルーブル美術館、プラド美術館と並ぶ、ヨーロッパ三大美術館のひとつ)での汪蕪生の個展「天上の山々」は同美術館で初の東洋人芸術家個展であるとともに、生きている芸術家の個展としても初めてのものとなった。

「私にとって人生が30年だろうが100年だろうが大した問題ではありません。“悠久なもの”に比べれば、人間の一生など、さらには人間の歴史そのものも何ということはないただの一瞬です。ただし、この悠久な時の流れも一瞬のつみかさねの連続です。ですからこのただの一瞬である人生を無限にすることもまた可能です。人間は身体という物体に魂が入ってはじめて人となり、魂が出てしまえば身体は朽ち果てるだけです。現在の世界は物質文化の極みですが、物質的にいくら裕福な人でも死ぬときに物質を一緒に待っていくことは不可能です。人間死ぬときは魂だけ、死ぬときに魂が貧しければなんにもなりません、それは本当に貧しい人です。私は自分の人生のこの一瞬を無限の価値あるものにするための行為として“悠久なるもの黄山”を撮ることを選び、黄山から啓示を受けたものと思っています。

どうしたら魂が貧しくならないか、それは毎日を心豊かに暮らすことです。美しいものを見て感動しその喜びを味わい魂に刻み込んでいくことです。その人の精神的な豊かさこそが財産として魂が持ち去ることが出来るのです。私の受けた感動を作品に反映させ、見る人に感動を伝えるこれが私の芸術論です。難しい理屈のついた“頭でっかちの芸術”ではなく、“見る人に感動を伝える芸術”こそが私の目指すものです。私の写真を見た人にとってその瞬間が幸福な瞬間であれば私は幸せです。28歳の時黄山と出会ってから、私の精神は28歳のままです。何に対してもあの時の感覚を呼び起こせるようにしていたいから」

汪氏とのインタビユーの後、思い出す言葉があった。男子の成熟−それは子供の頃に遊戯の際に示した、あの真剣さを再び見いだしたことをいう(ニーチェ)。肝に銘じよう。