Ariane Kiechle ( Munchenからの観客)
        1998.8. 『SZ』(南ドイツ新聞)への寄稿1

内なる光に照されたように

中国人写真芸術家汪蕪生、ウィーンにて西洋を征服

Ariane Kiechle ( Munchen)

この展覧会はメディアで紹介が少なかったし、ウイーン市内ですら、ハラッハ宮殿で展示されるこの隠された宝物殿については、ポスターなどの宣伝が足りなかったからである。これはおそらく、同時期に開催されるヘンリー・ムーア展の方が、重要だと思われたからだろう。しかし来訪者の意見は違っていた。それは分厚い観客ノートにも現れている!

2階の展示室に入るやいなや、まったく違う世界、夏の大都会の喧騒と雑踏とは隔絶された世界に自分が移されたように感じる。うす暗がりの中で来訪者を迎えるのは、荒々しく引き裂かれたような山の頂であり、その下には、濃く漂う霧海が、ところどころ、彎曲し枝も乱れた松の奇怪なシルエットをかいま見せている。山と空と雲だけ ― 古い中国の墨絵のように。しかしこれは墨絵ではなく、巨大な判の写真で、ゼラチン銀焼き付けが、まるで内なる光に照らされているような、まったく独特の立体的で透明な像を作り出している。観る者はまた、「気」、すなわち古い中国哲学で宇宙全体を貫いて流れているとされるエネルギーの動きに対して、あらゆる感覚を開放し、それを受け入れる状態にするような、特別な魔術にかけられてしまう。『気』は観る者を、もはやその魔力から逃れ得ないほどに強くとらえ、エクスタシ一と瞑想に同時に入るかのようである。

このモノクロの写真たちは、意図的に色彩を捨てている ― ここでは諸々元素そのものだけが、その永遠の動きと変化において重要なのである。写し出されているのは中国南部、黄山山脈の山々で、中國では古来から、中国全土でも最も絵心を誘う神秘に満ちた山地として知られ、2,000年以上も前から、あまたの画家たちを繰り返し惹きつけてきた。何千段もの階段を上っていくと、世俗からすっかり離れて、落着かない自己が静寂と沈思の中へと潜り込み、そして自身も――風景と同じよう―― ひとつの変化を体験する。この恍惚の状態が一切の無常から人を解放し、神秘的な変換プロセスをひきおこす。このプロセスの中で人間は、宇宙の永遠なるものと融合していく。

こうしたことが可能であるという事実を、観客ノートに残された無数の熱狂的な文章が証明している。『もうひとつの中国』―『そしてそれ(芸術)が我々に感動を与えるのだ!』―『描かれた絵画のよう』―『人を魅了する、圧倒的、印象的、驚くべき、素晴らしい、衝撃的、夢のように美しい』―『深い感動、神神の書道』―『この光度と静けさ』―『潜り込み、魔法にかけられて』―『無限の中の一瞬、絵画のような写真。永遠はゆっくりと、穏やかに、しかしひきとめようもなく我々のせわしない日常の中を流れていく』―『これらの写真は私が夢を見るのを助けてくれる』―『内面に向かう発見の旅――みごとな静けさと美しさと輝きに呆然』―『夢は続く』―『これまで観たうちで最も素晴らしい展覧会』―『これらの写真は憧憬と平安と希望を高めてくれる』―『この狂った時代の、真の清涼剤』―『奇跡的な発見!』―『これらの写真は、道教の哲学を理解するための一助となる』―『ものすごく神秘的!すべてが、生きることの意味をさぐるよう』―『とてもすばらしい!』―『こういう展覧会を観ると詩心が刺激される』。

『山の「気」がこの展示室のあらゆるところにみなぎっている。「気」が私を落ち着かせ、深い呼吸をさせてくれる。新たな刺激を与え、私のはずみ車を再び活発に動かすエネルギー補給。ふう! それにしても――冷房があったら良かったのに』。

『私は今日、学校へ行きたくなかったのでここに来ただけだった。そうしたらここは、本当に素晴らしいところだった。全部が私に影響を与えた。ほんものの写真がここにはぐるりと展示されている。私はひとりの人間としてここにいて、歩いて観て回る。ここには永遠がある』。

『この展覧会に足を踏み入れるとき、まるで聖地に入るような気がした。ひとつの写真から、なかなか次の写真へと進むことができなかった。どれも、それほど強い調和の感覚をよびさます。あなたには出世欲がない。そして最後に展覧会場を去る時、一時間の瞑想を終えた後のように感じた。あなたがその芸術によつてこれほど見事に成し得たように、現代文明と古代哲学をもっと頻繁に組み合わせることが可能であれば良いのに』。

『あなたは、中国の風景の美しさと心の安らぎをもたらす効果とをよリ深く味わう機会を、私に与えてくれた。おかげで今日はとても良い気持ち』。

プロの写真家たちさえ、妬み心なく、感嘆したことを認めている。自分でも広く旅をして、モノクロ写真も手がけたことのある76歳の写真家は『こんな素晴らしいものは観たことがない』と白状している。

ハラッハ宮殿内のウイーン美術史博物館が提供する、この種のものとしては例を見ないほど優れた展覧会は、残念ながらこの週末の8月9日で終了し、作品はおそらく、現在汪蕪生が住む日本に戻る。日本はまた、洗練された技術ノウハウでも彼を支援している。

19世紀のラドヤード・キブリングの宣言『東洋は東洋、西洋は西洋で、両者が出会うことは決してないだろう』は、この実に極東的な魂に満ちた展覧会が受け入れられたことからもわかるように、今日は幸いなことに克服された。しかしながら、もっと多くの来訪者にこの体験を分け与えることができたはずである。これほど技術的、物質的な方向に進んだ今日の我々の文明においてこそ、西洋の我々の中にも、よリ精神性を求める思いが次第に高まっているのだから。美しさを求める思いも同様に高まりつつある。隣のムーア展では、フーベルト・リードの、近代芸術はこの(美しさという)理念を卒業した、という言葉が引用されている。この言葉は疑いもなく当たっている――しかし、美しさへの憧れは変わらず存続しているのだ。