汪蕪生・インタビュー   
    1998.10.3《三井物産株主通信》

黄山に捧げる写真詩

中国の奇勝・黄山をモチーフにカメラで描く水墨山水画の世界

中国写真家・汪蕪生さんは故郷の名勝・黄山をテーマに「山水写真」という独自の境地を開けました。「美は感動です」という汪さんはアジア人としては初の個展を5月からウィーン美術史博物館で開催される予定です。

もっと大きな世界で活躍したい


――一九八一(昭和五十六)年から、活動の拠点を日本にされたそうですが、どんな理由からですか。

汪 私が日本に来たころは、中国はちょうど文化大革命が終わって、改革開放したばかりの時ですから、(中国国内で)フリーで芸術をやるには非常に厳しい時代でした。

中国では新聞社のカメラマンでしたが、自分の好きなテーマをやる自由な時間がない。それにフィルムも、仕事以外にはなかなかもらえない。だから、この状況から脱出したい、自由に芸術をやりたいという願望があったんです。それからもう一つ、当時、黄山(中国・安徽省)をテーマとした写真を七〜八年やってきてたんですが、だんだん自分なりの表現が分かってきたんです。そこで、もっと大きな世界で活動したい。今まで撮ってきたこと、表現してきたことを世界に見せて、同時に世界のいろんな新しい手法を取り入れて勉強していきたいと思いました。

七〇年代の中国は、閉鎖的で、外国の情報、ほとんど入らなかったんです。八〇年代に入って、たまたま、日本に来るチャンスがありました。日本は百年も前から西洋のものをどんどん吸収して、西洋と東洋の両方を持った国ですから、いろいろ勉強できるだろうと、そういう期待もあって、日本に来ました。

――汪さんが撮り続けている黄山は、汪さんにとって、どういう山なのでしょうか。

汪 実際に私の故郷の山でもありますし、私の「心の故郷」でもあります。

中国には、五大名山(泰山、華山、嵩山、恒山、衡山)という山々があって、これは昔から有名ですが、黄山は交通の不便なところにあったんで、有名になったのは五大名山よりはかなり遅れています。五大名山は二千年ほど前からですが、黄山は千年ほど前から、唐の代表的詩人の李自が詩を作ったり、明の有名な作家、徐霞客などの文人たちによって紹介されて、だんだん知られるようになりました。徐霞客は「黄山を訪れれば五大名山を見ることなし」と言っています。ですから、最近の中国では、黄山、黄河、(万里の)長城、長江(揚子江)の四つがシンボルとなっていて、ある意味で黄山は日本の富士山と似ている中国の代表的な名山です。中国人には桂林より黄山のほうがずっと人気があって、中国人であるからにはみんなが登ってみたいと思っている山です。

――汪さんにとって黄山の素晴らしさとは何ですか。

汪 岩ですね。自然の造形、神様が造られた彫刻みたいな岩がそびえている。あと、雲、雲海ですね。雲は山と分けられないというか、離されないような存在ですね。私にとっては山の魂は雲ではないか。雲なしの山は生きている山とは見えない。山に魂を与えるのは雲かなと。私の写真には勝手に「山水写真」という名をつけたんですけれど、山は岩、岩石。水は水蒸気、雲を表しています。

黄山を見て 人生観が丸ごとと変わった


――どんな条件で撮影されているのでしょうか。例えば晴れた日、曇った日など、気象条件があると思うのですが・・・。

汪 山に対してほとんど無知でしたから、最初はかなり苦労しました。まず被写体(黄山)

に対しての認識というか、勉強に時間がかかりました。黄山に最初に出会った時は魂まで衝撃を受けて、非常に感動し、興奮したんです。黄山を見て、私、自分の人生観が丸ごと変わったと思っているのです。今までそんな雄大な自然の景色に出会ったことはなかった。出会った時には、このテーマを私のライフワークにしようと思いました。それだけ強い衝撃を受けたんです。しかし、このテーマを決めてからも、山と雲海を思い通りに表現できませんでした。何年(黄山に)通っても(自分の写真が)気に入らなかった。「駄目だなあ、自分の気持ちを表現できない」、どうしても山から受けた感動、あるいは衝撃が写真に出てこない。

そこで、自分自身と黄山に対する認識を考えました。一体私は何だろう? 私の気持ちは何だろう?黄山から受けた感動は何だろう?そういったことをだんだん繰り返しているうちに、失敗を積み重ねながら、日本語で言えば「我(われ)」かな、それがやっと少しずつわかってきたんですよ。そこで、さっきの質問ですが、どういう季節を選ぶか、どういう気候を選ぶか、それがやっと自分なりの表現として定着してきた。最初は知らないから、どんな日でも撮っちゃうんですよ。もちろん晴れた日も素晴らしい。いくら雲がなくても「おお」と感動しちゃいますよ。ただそういう表現は、世界中に多いんですね。例えば、アメリカの写真の巨匠、アンセル・アダムスは、アメリカのヨセミテという国立公園を集中的に撮ってきた。彼の表現は晴れた日です。山の岩肌をくっきり表現して、光と陰の部分をはっきりさせ、明晰に写実的に表現している。それは私ももちろん大好きだけれど、私が黄山から受けた感動とはまた違うんです。

芸術一番大切なもの――「創造」


汪 芸術という表現で一番大事なのは、「創造」です。アーチストとしていい作品を世の中に出すなら、今までとは違う表現をすることです。もちろん(創造は)新しいだけでは駄目です。まずは、美しい、人が見て感動する、それが第一条件です。それプラス新しい「表現」です。今までの歴史の中になかった、西洋の写真の中にも東洋の写真の中にもなかった、というような表現、これが目標です。

そこで選んだのは、いっぱい雲が出てくる日。一番いいのは雨、霧の日です。そこに私なりの撮り方、選び方がある。時々一カ月近くも霧だけで何も見えない時がある。そんな時はどうしょうもない。待つだけ。一カ月、二カ月待って景色が出てくるまで待ち続けます。

写真という芸術と、絵画という芸術は似ているけれど基本的に違う。絵を描くのは非常に自由な表現ですよ。思うままに描けるんです。作家のイメージするものも登場します。言い方は悪いですが、ねつ造です。簡単に現実には存在しないものを自分の好きなように描ける。そこが絵画の特徴です。

写真はそう自由にはいきません。写真は日本語の表現で「真実を写す」です。真実じゃないと写せない。そこに大きな制限がある。私は、黄山からいろんな印象を受けたけれども、どんなに頭の中にいいイメージがあっても、それが現実にならないと写せない。神様がそういう景色を与えてくれないと撮れないんです。この地球上に、ある時間、ある空間にこの一瞬があった、そこに見る人に与える衝撃がある。それが写真の面白さですよ。

最後に決めたスタイルは一番最初出てきたもの


――今のスタイルが決まるまでにはどのくらいかかりましたか。

汪 徐々に段階的に定着してきたんですが、これからも変わる可能性がありますね。ただ非常におもしろいことは、最後に決めたスタイルは、基本的には一番最初に出てきたイメージだったということです。 最初の「これは面白いな」と思った感覚を、その後、だんだんに知識を深め、いろいろ勉強していくうちに否定しちゃったんですね。他人に「これは駄目だ、写真じゃない」と言われたり、自分でも迷ったり、ほかのスタイルを模索してきたんです。しかし、だんだん被写体を知り、自分自身を知って、やっと気がついた。一番最初に捨てたものが本当の自分のものだったんだと。だから、アーチストとして大事なことは、周りの流れだとか、知識だとかに翻弄されないように、自分自身の感覚を保つこと。大事なのは自己表現です。個性がないと、いいアーチストになれない。それを、私も自分の人生を通して学んできたんです。「ああ、そうか、一番最初のところに戻っちゃった」と。

――汪さんの作品が欧米の人たちからも支持されている理由は、何だと思われますか。

汪 そうですね、私の作品は必ず国際社会に受け入れられるという、ぼんやりとした自信みたいなものはあったんですよ。ですが、確信を持てるようになったのは、例えば、メトロポリタン美術館、国際写真センター、それからサンフランシスコにあるアジア美術館の方々が、私の写真を見て興奮したり、息をのんで見てる様子を見て、やっと自分の作品が西洋人の目からどう見られるかわかったんです。驚いたのは、私の作品を買いに来るコレクターがほとんど西洋人であるということです。わざわざカナダやイギリスやドイツから来て私の写真を欲しいと。それで西洋人がこのような写真が好きだとわかった。その理由はまだ私の推測ですが、(西洋の)写真の歴史の中にこういう(東洋的な美しさの)スタイルがなかったからではないかと思います。

美は「自然」。美は「感動」です。


――抽象的になりますが、汪さんにとって「美」とは何ですか。

汪 一番素晴らしい「美」は自然です。人間は自然から学び、そこからいろいろ芸術をつくったりデザインする。色の表現とか、自然の中から出てきたものを見ると、人間は本当にちっぽけなものしかつくれないんですよ。やはり神様は素晴らしい芸術家です。例えば、海。あの色!あの形!いくら優れたアーチストであっても人間の創造力ではあんな素晴らしいものはつくれないです。

私は無宗教ですが、一つだけ信仰があります。それは、「真善美」。やっぱり、これだなと思います。これがないと(人間は)動物と同じで、人間が存在する意味がなくなっちゃう。今、あまり言われていないけど、人生の根源です。私が追い求めているのはこれです。

美の解釈は、近代になって難しくなっています。十九世紀の後半から、二十世紀になって流行っているアートといわれるものは、感覚で感じるものではなくて、哲学や言葉で解釈されて非常に難しく分からなくなった。私にとっては非常に簡単。美は「感動」です。美は人々に勇気を与える。「美しい」とか、「生きていかなきやいけない」とか、元気を与えるものです。その再現というか、創造が芸術家の使命だと思っています。

二つの祖国が仲良く

――経済人を中心に「汪蕪生先生を囲む日中協力会」がつくられるそうですが、これについてはどのような感想をお持ちですか。

汪 私、日本に来て十七年です。最初はポケットにお金一銭もないし、日本語も分からない、何もかもゼロから始まったんです。それまでは中国で本を出したりしていたのを、すべて捨てて一人でやって来て、ここまで来ましたが、日本の皆さんの応援がなかったら、何もできなかったのじゃないかと思います。

三年前に、こんなにたくさんの方方から応援していただいているのなら後援会をつくらないかという話になりまして、さくら銀行の小山相談役名誉会長をはじめとする多くの方々が温かく応援してくれることになりました。今まで本当にたくさんの方々、普通の学生さんもいれば、日本のトップの経済人とか文化人とか、そういう方々のすごく温かい応援で今日まで芸術をやってこられた。そういうふうに考えますと、非常に胸が熟くなるんです。いくら自分に芸術の能力があっても、そういう支援がないと何一つできないんだから。

そこで、私の大きな願いですが、私、中国で生まれ育ちましたが、一番大事な時期を日本で過ごしました。日本でいろいろ勉強し、日本文化の影響を受け、日本は第二の祖国になっている。だから、この二つの祖国が仲良くやっていくことを、本当に願っているんです。二つの祖国が二十一世紀も外交的にも、経済的にも仲良くやって、アジア全体が発展していかなくでは駄目だと思います。私、個人としての力はないですけれど、少しでも、この二つの国のためになるのだったら尽力していきたいなと思っています

――今後の創作計画についてお伺いしたいのですが。やはり黄山一筋でしょうか。

汪 皆さん、「汪さん、やはり黄山だけに集中してほしい」と言われます。私もそういう気持ちがあります。この二十数年間、黄山をモチーフにして作品をつくってきて、美意識や考え方の点で、黄山からいろいろなものを得たんです。自然からいろいろ得て、私のセンスを磨きました。そういうものを生かして、これからは新たなテーマにも取り組みたいと考えています。そして、たくさんの写真を撮って後世に残したいというのが私の希望ですね。

汪蕪生氏プロフィール

略 歴 安徽省蕪湖市生まれ。安徽師範大学物理学科卒業後、

1973年 安徽省新聞図片社カメラマンとなる。

1981年 北京人民出版社から写真集『黄山』刊行。来日。

1988年 西武美術館で写真展。講談社から写真集『黄山幻幽』刊行。

1993年 三越本店で『黄山神韻――汪蕪生山水写真展』を開催。

講談社から写真集『黄山神韻』刊行。

1994年 『黄山写意』を日中合同で刊行。

〜1996年 東京、大阪、新潟、福岡、北京、上海で写真展。

1997年 オーストリアにでクルーフ展。

1998年 オーストリア・ウィーン美術史博物館でアジア人としては初、在
世の芸術家としては二人目の個展を開催予定。(5用16日〜8用9日)