カール・アイクナ-(オーストリア・クレムス美術館館長/写真評論家) 
      1998.5.19.

汪蕪生《天上の山々》写真展のオープニングセレモニーにおける

オーストリア・クレムス美術館カール・アイクナ-館長の挨拶

1998年5月19日夜、ウイーン・ハラッハ宮殿2F会場


尊敬する大使閣下、親愛なる館長様、親愛なる汪蕪生先生:

サイペル館長がすでに今回の展覧会と汪蕪生先生の作品についですばらしいご紹介をされましたので、私は昨年8月に初めて汪蕪生先生の作品を目にした時の印象をお話ししたいと思います。その時私はまず先生の独特な風格に惹かれ、さらにこれらの作品を前にした時に最も強く感じたのは、これらはある方法によって理解しなければならないというものではなく、作品そのものがすべてを語っており、必要なのはただひたすら作品を見て、見て、見続けることだということでした。

我々の芸術は千年以上にわたってなにがしかの方向性と傾向を持ちつつ発展を続けてきており、人々はすでに決まった思考様式で芸術作品を鑑賞し評価することに慣れております。しかし私は汪蕪生先生の作品を前にして、自分がこれまでとは理解を異にする芸術の新世界に足を踏み入れた感がいたしました。こうした芸術の形を前にした時には、私たちはただ感覚器官をリラックスさせ、自分の存在全体で作品を味わいさえすればよいのです。汪先生の作品は、すなわちこのような芸術との対話や内在する精神世界、混じりけない自己の投影を追求したものに他ならないのです。

現代においては、芸術は徐々に工業化されつつあります。写真自体も、フランスの哲学者ロラン・バルトの『写真とは、かつてその事物がそこに存在していたことを語るものである』という言葉通り、技術製品として、存在する事物やかつて存在した事物の記録、描写として用いられています。しかし、汪蕪生先生の作品が表現しているのは単に山の美しさだけではなく、その超現実的、神話的な理想世界像を克明にとらえているのです。こうした作品を見つめていると、我々は時の儚さと移ろい易さを感じずにはいられません。実際、見れば見るほど時の刹那状態が感じられ、一種の夢見心地になってしまいます。それはまた、同じように時間と空間を超越した感覚を表現してきた、キリスト教における天国の描写を我々ヨーロッパ人に連想させるものでもあります。

汪蕪生先生は日本在住の中国人ですが、その創作の原点は、日本文化やましてや一瞬の時を切り取って表現しようとする日本の俳句の概念から生まれたものではありません。汪先生の作品は20世紀における芸術の新たな試みであると共に、中国の伝統的な水墨画のイメージを取り入れていますが、これは欧米で受け入れられやすい創作スタイルだと言えます。いかなる文化であれ、山水が織り成す世界の追求はすばらしいことであり、汪先生はまさに芸術を自然へ回帰させ、永遠で不朽なるものへ回帰させようとしているのです。先生の「天上の山々」と題された作品は, 一枚一枚が事物の一側面を写し出しつつ、人々に限りない想像の空間を与えています。写真と絵画の相違点は、前者が世界の一側面を写し出し、密閉されない限りない空間を表現すると見なされているのに対し、後者は全体を絵描き出すことだとされております。汪先生の作品はまさにこうした開放的で果てしない空間、及び大自然とのつながりを表現しており、世俗を超越し、しなやかで軽やかなものです。人々はそれを目にした時、その中に永遠に続く変化を見いだすに違いありません。これは,道教の虚空の概念にも相通じ、芸術と自然とのつながりを示しているでしょう。ニーチェは『人は事物の部分的な概念から全面的な印象を得るものである』と語りました。私は、皆さんにすぐさま作品の画面に対する定義を下さないようお願いしたいと思います。なぜなら、これらの作品中には変幻自在の力が潜んでいるからです。

汪蕪生先生は今回その作品を我々ヨーロッパ人の前に示し、我々ににあれこれと空想を巡らす喜びを与えてくれました。その魅力は、これらの作品がアジアにおいてもたらすものよりも大きいに違いありません。なぜなら、アジアの人々はすでに多くの文化的背景があるが、故に、作品の見方がある程度決まってしまっているからです。これらの作品をじっと見つめることは、見慣れたものを全く別の角度から眺めてみるというチャレンジです。どうか、画面の中のとらえどころのないものはとらえどころのないままにしておいてください。そうすることによって、我々はより大きな、既成の観念に縛られない開放感を得ることができるのです。