汪蕪生・インタビュー   
 ?1994.07.01《一枚之絵》

黄山を命として

聞く人――竹田厳道一枚の絵渇長)

◎汪蕪生さんが一枚の絵に私を訪ねてきてから久しくなる。リュックサックか小さなトランクひとつに着たきり雀といったいでたちだったが、その眼光に鋭いものを感じた。いまも朝夕、居室で拝見している中国書法会会長の啓功先生の書をお土産に、日本で写真を勉強するといっていたことを覚えている。彼は故国中国の名山というか、霊山「黄山(こうざん)に取組み、当時、既に彼の篋底に何百枚からの黄山を撮ったフイルムを収めていた。

星霜十四年、汪さんの黄山に寄せる思いは対談のなかにくわしいが、いま見事し開花した彼の芸術と、その過程で心に刻んだ東洋への思いに、聴くものは誰もが熱いものを感ずることであろう。


(竹田)―――於一枚の絵渋谷画廊

日本の美に惹かれて

竹田  日本に来られて何年になります。

もう今年で十四年目です。一番最初、日本に来たばかりで竹田会長にお会いしたんですね。いろいろお世話になりました。本当にもう忘れられない。今日は懐かしくて…。

竹田 いまも僕の部屋に掛けていますけど、あなたが中国から来るとき、書をたくさん持ってきたでしょう。あのときの中国書法会の会長愛新覚羅啓功さんの書を額に入れて、僕は自宅で毎日見ているんです。字というのはいつも見ていると、それに似てくるんですよね。啓功さんはやや細長いような字を書く。

そうですね。啓功さんの字は特徴あるのね。物すごく力ある、鉄みたいな。

竹田  あれは愛新党羅家の独特の字でしょうかね。

そうですね。ラスト・エンペラー(博儀)の弟の博傑という人はまた違うんですが。やっぱり満族の人ですからね。

竹田 字は血で書くようなものだから。

  ええ。それから、清の時代の皇族に流行った、一つの時代をあらわしている字なんです。

竹田  いまはああいう字を書く人はあんまりいないね。

まあ其似して書いてる人、いるかもしれないけど。(笑)

竹田  僕はあなたがいま、中国でもアメリカでも有名になっているのをすごいな、と思っていたんだけど。十四年前はいまと違って、中国から日本に勉強に来るというのはなかなか大変だったんですよね。

  あのころは本当にあまりいなかった。私、来たときは、留学生、国費、私費、全部あわせても百人もいないぐらいという時代です。私、日本で最初の作品集、講談社から六年前に出した、その後書き仁書いたんです、苦労話。日本語一言もできない、それから、ポケットに一銭もなかったです。貧乏で、アルバイトしながらいろいろと。

竹田  失礼ですが、いま何歳になったの。

  実は私、普通、年はいわない。若く見えるから、三十八。(笑)本当はいままで二十八といい続けてきたの。そうしたら、「汪さん、十年前も二十八でしたでしょう。まだ二十八?」。ああ、そうか……。(笑)

竹田  十四年前に日本に来たときは、写真で日本を撮ろう、ちょっと研究しようと思ったんですか。

  そうですね。もっと写真の芸術をいろんな面で勉強しようと。いままでずうっとやってきた山水写真−l私、名前をつけたんですよ、風景写真でなく−、そういうものを日本で勉強して深くしたいと……。

竹田  あなたが名前をつけたの、山水写真って。中国でも、いままではああいう山水の写其というのは、あんまりなかったんですか。

  似た感じというのはあった。形だけ山水画の真似してる。でも、私、山水画の真似はいけない、それは駄目と。自分のものはそうでないと。基本的には心です、魂ですね。魂といと美意識です。東洋人の美意識、あるいは中国人の美意識、心から出た表現として、絵だったら山水画、写真だったら山水写真と。もう一つ、日本に来た理由は、日本の美にすごく惹かれたんですよ。日本にはやはり独特の美的なもの、あるでしょう。日本画、とくに東山魁夷先生の絵などには、中国にないようなものがある。中国の山水画とかは、ご存じのように気迫があるんですね。でも、日本人の繊細なセンスとか、色に対する微妙な感覚ね、ちょっとこういうところは日本は世界一と思う。

竹田  そういうものを掴もうとして来たわけですね。

  そうです。それも一つの埋由。

竹田  当時、あなたが来られたころは、ちょうど文化大革命のあとぐらいでしたか。

  直後です。

竹田  そのころ北京に行っても、まだ文革臭はあって、中国の絵なども、何が心がなかったですね。

  ええ。文革は、一つの歴史的な出来事が共産党の政権下であったのですけど、政治の分野だけじやないと駄目ですね。芸術分野には……。

竹田  芸術家は辛かったでしょうね。

  辛かった。だから、本当に正直いうと、そのとき、もっと自由に表現することが出来たら、どんなに……。しかし、そういう面では、風景写真とか風景画家はわりと自由なところあるんです。風景だったら別に政治と関係ない。でも、それにしてもさんざんやられた人もいるんですよ。風景であっても何か毛沢東思想と合わないとか、いろいろいわれて辞めた人も結構ありますけども。私、文革の直前に大学に入ったんですけど、反革命といわれてやられたこともありますよ。

竹田  あなたは大学でも芸術や写真を勉強したんですか。

  いや、実は、大学で勉強したのは物理です。

竹田  ほう、物理。

  ええ。高校を卒業するとき自分自身は本当に何をやりたいか知らなかった。それでたまたま初恋の相手が、理科の大学に入るというので。

竹田  あなた、いろんなところで恋愛しているものね。(笑)それは中国のどこですか。

  私、安徽省の出身。高校も大学も安徽省です。

竹田  安徽省って、省都は何というの。

  省都は合肥(ごうひ)。安徽省は南京のすぐ隣の省です。私、生まれたのは古い町で蕪湖市(ぶこし)でしたね。南京から一時間の揚子江の港町で。でも小さいころ父親の仕事で、もう省都−−合肥に行っちゃった。

竹田  お父さんは何をやっておられたんですか。あなたの家は名門なんでしょう。

  いえいえ。父は若い時代から文化人ですね。いろいろ小説を書いたりとか。上海に左翼作家連盟ありましたね、文豪魯迅と一緒の団体で、父と母、両方ともそこの一応メンバーだった。

竹田  お母さんも。

  母も。母の家はちょっと中国では……。おじいさんは、一度、中国の議会議長もやったことあるんですよ。ずっと湖北省の議会の議長をやっていまして、一時、国民党の政府じゃなくて、その前の北洋軍閥の政府のとき、臨時政府の議長もやった。そういう家庭に生まれて、母は小さいころからいろいろ、お兄さんたちの影響を受けた。つまり私のおじさんですが、二人は二○年代にフランスに留学して、三番目のおじさんは共産党になってからの中国の教育大臣を三十年間やりました。

竹田  やはり名家なんですね。

  母はそういうような出身だったので、小さいころから新しいものに憧れて…。そのころ、ほとんどそういうふうな青年たちは共産党に入ったんです。新しい思想のため、新しい理想を掲げて。でも結局私の父や母は共産党には入らなかった。文化人ですから自由が欲しい、束縛されたくないというので。ただ、仕事として、毛沢東と一緒ということはありましたけど。毛沢東のパートナー、朱徳の秘書もうちの父はやりました。つまり共産党が延安に入った直後、父は文化人として初めて上海から延安に行ったんです。

竹田  あなたが日本に来るとき、中国のいろんな立派な書家が書を待たせて寄越したから、僕は何かやはり中国での環境があるなと…。

  バックグラウンドですか、背景のある生まれ。これは、誤解ですね。みんなにそう思われるの。私のバックグラウンドというのはおじいさん、それからおじさんが教育大臣をやったといっても、僕には全然関係ない。いまの中国のいろんな作家とか芸術家、あるいは政治家とか、ほとんど私個人の知り合い。

竹田  個人で、どうして。

  日本に来る前に中国で私は『黄山―汪蕪生影集』を出したんです。文革直後ですから、個人の作品集を出すのはほとんどできなかったんですが、そのときすでに出した。それは芸術活動を通じていろんな方と知り合ったからなんです。

竹田  その時分に写真集を出すくらいだから、やはりあなたは金を溜める才能もあったんだね。(笑)

  いや、私、写真とか芸術には多少自信はあるけど、お金だけ駄目ですよ。(笑)絶対、生まれつきそういうセンスはないよ。いま、いろんなところで頑張っているでしょう。でも収入ないの。だから、みんなビックリする、「あなたの作品、こんなにたくさん売れてるのに、何で」。(笑)そういうところどうすればいか、私、さっぱりわからない。(笑)


人生観を変えた黄山

竹田  さて、本題に入りますけど、あなたは黄山を捉えて、黄山の写真家じゃ世界一なんでしよう。

  まあ、そういうふうにいわれています。自分なりの表現の仕方をつくり出すのに時間がかかりましたね。だから初めての出逢いから二十年間、この山だけ。

竹田  あなたがまず写真をやろうと思ったのは…。

  さっき申し上げましたけど、大学で物理の勉強でしょう。入った途端、すぐ後悔した。駄目、こんな大学絶対行きたくない。でも親は絶対反対。中国、大学の数、すごく少ないから、競争率、物すごい、百人以上。もう辞めろと次は入れない。だからしようがなくて四年間勉強した。でも本当にやりたいのは芸術です。音楽、演劇、絵描き、何でもやりたい。本当は絵描きやりたかった。結局大学を卒業して、どうしてもそういうチヤンスとか道はないですから、どうしようといろいろ考えて。中国では写真と絵画は兄弟芸術といわれるんですよ、同じ視覚芸術ですから。表現の手段として、絵具とフイルムと違うだけ。じゃあ自分のセンスを生かして写真をやろうと。

竹田  決心したんですね。

  はい。決心して写真の道に。それから、安徽省の画報社にカメラマンとして入ったんです。

竹田  あなたが黄山に魅力を感じて、ライフワークとしてやろうと思ったのはいつころなんですか。

  たまたま七四年に取材の関係で黄山に出逢ったんですよ。実は、名前はよく知っているけど行ったことなかったんです。同じ安徽省にあるんですけどそんなに簡単に行ける場所ではない。仕事ではじめてこの山に行ったんですが、あの瞬間を私、忘れない。ものすごく大きな衝撃を受けた。本当に大袈裟な話じゃないんですけど、人生観まで変わったんですよ。雄大な自然というか、神様が創った自然の美しさに圧倒されちゃって、人間は、その雄大な自然の前で本当に小さい。それから、人生は短いな、と感じましたですね。だから、この短い人生で、何かやらなくちゃ駄目。世の中に残る、あるいは自分が満足できるような仕事をしないと、人生はもう全然つまらないとそこで感じたんですね。それで私、自分のカメラで、受けた衝撃というか感動を表現していこうと、その場で決めました。

竹田  それは幾つのときですか。

  もうすでに二十五ぐらいになっていた。

竹田  黄山に上がって、まさに啓示を受けたわけですね。

  あれは千八百メートルぐらいの高さですけど、何か急に高くなって、足下は絶壁、大雲海、下に雲が動いている。手を挙げたら空にすぐ触れるような感じがして、自分は雲の上にいるの。音はただ、松の音、風の音だけ。宇宙の中にひとウいて、宇宙と対話する、魂の交流をする。

竹田  雲と一人、山と一人、天と一人になったんでしよう。

  だから、中国人のタオイズムの思想少しわかったんですよ。仙人になった気分が少し味わえる。そういうタオイズムの思想、中国では仏教より強いですよ。道教の思想、老子、荘子の哲学ですね。それは一般の人生観にも根強く影響している。山水画も、そういう思想から、哲学から生まれたと思いますよ。

竹田  山水写真というのは、さっきあなたが元祖だといわれたけれども、これまぐにも中国の写真家は黄山に行って、写真を撮ってきたのでしよう。

  写真の分野の中に、山水写真というものはいままでありませんでしたが、でも、もちろん中国で黄山は桂林よりずうっと人気のある、人々の憧れの山ですから、これまでにも絵描きとか写真家、みんな集中してモチーフにしています。

だから、なぜ私、こんなたくさんの人がやってるテーマを選んだか…。それはやっぱり、いままで見てきた絵とか写真とかと、私が黄山に登って受けた衝撃や感動が違う。

私、どうしても自分なりの表現をしてみたい。あるいは自分が受けた感動をうまく表現していきたい。それでテーマを決めました。

竹田  黄山のカメラマンとしてあなたが抜きん出ているのは、やはり受けた感動を芸術に持っていったからなんですね。

  まあそれぞれの感動の仕方は違うと思います、個人差もありますから。私なりの感動がいままで見てきた写真ではなかなか表現されていない、だから自分でやろうと。

竹田  何回ぐらい行ったんですか。

  日本に来る前はほとんど毎年二回くらい。二週間から長いと二カ月、山に篭もり込んで、自然と対話して自分の目と心を養うんですよ。黄山は気象の変化の激しいところなので、ひたすらシヤッターチヤンスを待って。

竹田  まあ一種の修行だね。

  修行ですね。本当に黄山から得たもの、私にとって、数え切れない。人生観も変わったし、見る目も変わりました。美的なセンスも黄山によって磨かれたんですね。そういうことをすごく感謝しているんです。

竹田  写真だけでなくて、汪という一人の人間が黄山と相対して磨かれた。だから、死ぬまでそれを続けていくと。

  続けていきたい。私、まだ独身ですけど、すでに黄山と結婚したようです。まあ気持ちとして一体になっているんですね。この山は私にとっては人生の全てといってもいいほどの存在です。

竹田  いままで発表した黄山の写真というのは何枚ぐらいあるんですか。

  日本に来てから講談社から作品集を二冊出しました。最初は八八年に『黄山幻幽』、西武美術館で個展をやったときの。それから、去年、『黄山神韻』。あわせて百二十点近くです。これはモノクロ。あと三越の展覧会とかいろいろ全部で、カラーも入れて一応二百点ぐらいです。

竹田  まだ日本では有名じゃなかったあなたの作品集があの当時よく出ましたね。

  本当に私の人生の中にはいろんな方の助けがありまして、それによって今日まで頑張ってきましたんですけど。

竹田  第一回の作品集の反響は大変だったんでしよう。

  講談社はとりあえず応援しよう、という感じで、好意を待ってやってもらったけど、ただ、本当にこの本が日本で売れるかどうかすごく心配してたんです。でも、そのとき西武美術館の主催で池袋で個展をやりました。一冊三千六百円ですが、「あなた、幾ら自信あっても一日二十冊売れたら最高ですよ」と。だから六日間分、百二十冊運んだら、結局最初の一日だけで全部売り切っちゃった。あとは毎日平均百十冊ですよ。西武美術館、講談社とも大騒ぎ。

竹田  初版は何冊つくったの。

  初版は三千冊。あと三回重版しまして、いま、また在庫もなくなったんです。

竹田  アメリカでは本にならなかったの。

  アメリカの出版社で三本指に入る美術出版社の社長に東京の国際ブックフェアで私の作品集の写真を気に入っていただきまして、「是非アメリカで本を出したい」と。私、呼ばれてニューョークに一年近くいたんです。ところがアメリカの景気、急に悪くなった。結局、契約の問題で、向こうが本の出版だけじゃなく、オリジナル作品の販売権を欲しいと。それでアメリカの出版社はやめて、釆年、講談社アメリカでやることに。あと、いギリス、フランス、ドいツ、いタソア、オランダ各国語版は、ヨーロッパの出版社から要望ありまして、いま話をまとめているところです。

竹田  ところで、あなたの生まれた中国ではいまどういう評価なんですか。

  『人民日報』とか、何回も大きな新聞の一面で私の写真を紹介していただいたり、雑誌にもいろいろ紹介されたけど、ただ、個展はまだ一回もやったことないんです。それで今年、十一月一日から二週間、中国の北京国立美術館の中央ホールで個展をやることになりました。いままで平山郁夫さんとか加山又造さんをやったけど、個人で中央ホールを使うことは許されていなかったんです。だから本当に感激ですよ。新しい文化部長が私の写真を支持してくださいまして、今年、北京国立美術館と上海美術館で是非やりたいと。

竹田  そのときに行ってみたい ですね。

  是非そのとき、もしお時間ありましたら。いま、またいろいろ資金集めとかやってる最中ですから。でも、どうしてもやりたいです。中国での影響だけじゃなくて、いま中国は世界で注目されていますから、向こうでやることはやり甲斐があるなと思うんです。


東洋の心を伝えたい

竹田  日本に十何年もいてもちろん日本の風景も撮ったんでしよう。

  まだ始めていない。いろいろ考えているけど。やっぱり撮るなら時間を絞って富士山なんか。富士山は美しいですよ、いろんな表情があるんですね。もちろん黄山はずっと撮り続けていきたいけど、私、どうしても次のテーマは日本で撮りたいですね。

竹田  しかし、十何年間日本にいて、どうして日本を撮らなかったんですか。 い

  それはやっぱり黄山の写真のためです。私の場合、暗室作業が長い。たとえば二カ月、黄山に篭もって写真を撮ったら、一年から二年間、暗室作業がかかります。私の写真は写実的に写し撮るということではなくて、あくまでも私の心象風景ですから

竹田  撮ったものを修整するわけですか。

  じゃなくて、作品になるが、一枚一枚、いろんな印画紙、いろんな現像液でやってみないとわからないんです。暗室がアトリエですよ。絵描きの気持と同じ。

竹田  絵描きが現場でスケッチしたあと、画室に篭もって仕上げるのと同じで、撮ったあとも大変なんだね。? あなたの作品にカラーはないの。

  去年出した『黄山神韻』の中に少し入れたんです。

竹田  僕の勝手な見方だけれども、黄山というのは、白黒のほうが神韻渺々として人の心を打つんじゃないですか。

  そう思います。昔、私、カラー写真に興味があったんです。でもやっているうちに、だんだん色に対する興味、全く.なくなってしまった。結局よくいわれる究極の色はモノクロですね。黒と白、及びその中間の灰色のグラデーションの変化、これは最高の色だと。
竹田? それに最も相応しいのが黄山だったわけですね。

  そうです。表現の内容として。

ですから、去年の写真集に入れたのは、カラーといってもやっぱり渋い、何か水墨のような、ちょっと色がついてるという感じです。

水墨の世界というのは、東洋人の美意識の究極のものではないでしようか。中国も日本も同じ感覚を侍っているんじゃないかな。中国の賑やかな色、赤とか黄色とかのチヤイナタウンのイメージ、あれは本当の漢民族の文化じゃないんです。

竹田  あなたが言った東山魁夷の世界ね。あれに魅かれて日本に来たという…。それは何も魁夷の絵だけでなくて、東洋の美、心ということなんですね。

  そうですね。

いま、私、あちこちで講演会をやっているけど、一つよく考えていることは環境問題です。黄山の自然美も観光開発のために破壊の危機にさらされているんです。近代文明、つまり西洋文明は、もちろん素晴らしいこといっぱいあったけど、特に物質的な豊かさをもたらしたけど、いろんな問題点が出てきて行き詰まってきている。環境問題でもこのままいくと、あと何年ぐらいかで、人類は破減するでしょう。

私、豊かさの項点に立っていた日本に住んで、やっとわかったのは、物質的な豊かさだけあれば人間は幸せになれるか、そうではないということです。やっぱり西洋文明は基本的には物質文明ですよ。東洋文明は、精神を昔から大事にしていたんです。もちろん基本的な食ベ物とか着る物は必要だけど、それを超えたら物質はほどほどにして、精神を大事にしてほしいですね。「ポスト近代文明」の時代が必ずやってくると思います。ですから、次の時代に向けての新しい理念というか、新しい価値観、新しいライフスタイル、及び新しい社会のシステムが必要ですね。

竹田  いまのままでは駄目だ、ということですね。

  ただ、問題は誰でもわかるけど、出ロはどこにあるか誰もわからないんです。私もわからない。だからみんな一緒に考えなくちゃいけない。私がわかる出ロは昔の東洋文明にある。すでに忘れられた過去の東洋文明、東洋の哲学の中にあるんです。もう一度昔のことを振り返って、あるいは見直してもらって、いまの問題点を見て、西洋文明のいいところを取り入れて新しい価値観をつくらなければいけない。

竹田  それはそうだ。東洋と西洋のいいところを融合して。

  そうそう。そしで、いまの問題を解決できるような新しい理念をみんな一緒に考えなくちやいけないと思う。

たとえば哲学というと、西洋の哲学は分割的、分析的、科学的な哲学でしよう。東洋的な哲学は総合的、合一的な哲学それから医学も、西洋医学は微粒子まで分析して、手が病気だったら手を手術する。東洋はそうじやない、手の病気でも、全身を考える。Fだから東洋と西洋二つの哲学違った医学、全然違うけど両方必要

それから、東洋文化と西洋文化の代表的に違うところは、漢字文化圏と西洋のアルファベットの文化圏の違いですね。漢字文化圏では人間の考え方、まずいメージから出る。発音を知らなくてもいいの。

竹田  大体、文字の形から見て、どういう意味かわかる。

  西洋人は、 A B C、何も意味ない。音にして耳に入ってからどういう意味かわかる。ヨーロッパはあんな小さいところにたくさん国がある。発音ちょっと違うとすぐ一つの国ができてしまうのです。中国では、幾ら発音が違っても漢字がある。だから、この漢字文化圏の求心力はすごい。

結論として、いまの時点に立って、もう一度東洋文明を見直す必要と時期が来たと。

これからの時代は必ず東洋の時代。狭い視野じゃなくてそれを考えなければ・・・。

竹田  黄山を撮ることによって、あなたはそういった一つの展望を見出したのですね。

  私の写真を通じて私の心を世界に。私はアーチストですからアートを通じて考えていることをみんなに訴えたい。これは東洋の心、みんな見てはしい。西洋人も見てほしい。西洋で結構反響ありますよ。

竹田  もう大体演説は終わったからいかな。(笑)

【ワンウーシェン】写真家中国安徽省蕪湖市生まれ。皖南大学(現.安徽師範大学)物理学科卒。F安徽省新聞図片社安徽画報杜のカメラマンとなり黄山を写し始め、「人民日報」「中国画報」などに発表1981年北京人民美術出版杜よリ「黄山ー汪蕪生影集」を刊行同。同年来日。1983年日本国際交流基金研究員となり、日本大学芸術研究所で研修。横浜市の勧行寺の襖絵を黄山で撮った写真で制作。1984年約ー年にわたり黄山に取材。1986年東京芸術大学で研修1988年講談社より写真集「黄山幻幽」を刊行。同年西武美術館の主催で個展開催。

1989年東京女子大学比較文化研究所の客員研究員となる。1990年渡米ニューヨーク滞在。1991年黄山取材。1993年三越日本橋本店で山水写真展「黄山神韻」を開催、世界巡回展をスタート。同時に講談社より写真集「黄山神韻」を刊行。1994年北京国立美術館、上海美術館で展覧会を開催予定。現在、東京在住。