室伏哲郎(美術評論家)

1993.04.《黄山神韻》の解説文


実存の神仙境物語

汪蕪生の素晴らしさは、神仙境の実存を現代社会に提示、証明してみせたことにある。

神仙境とは、人間と神の中間的存在である仙人たちが、霞や玉英(宝石)を食らい、神通力を獲得して、雲気に乗じて空中を自在に飛行し、しかも姿形は乙女のように麗しく、挙措は限りなく優しく、天地と寿命を同じくして不老不死、融通無碍の世界に遊ぶ、深山幽谷の別天地にほかならない。

宇宙の精神と合一した仙人の棲む理想郷・神仙境は、古来中国人の憧憬のパラダイスであり、道教の神仙方術の究極に、仙人、さらには天地宇宙とさえ交感できる巫術に、神秘感を電荷された神山霊場なのである。

そこには、なにがしか、巫祝的鬼神信仰、もしくは超自然的な東洋的シャマニズムの影が色濃く投影しているとしても、その世界観の根底にあるものは、大自然との隔てのない融合、交感のこころといえる。

峨峨たる山嶺、突冗たる巌、霧か青か白雲か、はたまた雨雲か靄か、靉靆とたなびき、かつは、悠然あるいは豁然と湧き出ずるような夢幻ミステリアスな山気。

鋭角に重畳と切り立つ岩石、清らかな源流の滴り落ちる峡谷の狭間に、幽幻の影を曳いて生い立つ針葉樹、何事ぞ、眼を凝らせば、ここにも人か、僊人(天に昇るひと)か、生あるものの営みの痕跡ともいうべき、石の階段が刻まれた巌上に、一宇の四阿や、はたまた僧院、石室・・・・・・。

まあ、禅味を帯びた水墨の山水画といえば、あらかた、このように清楚簡潔な大自然、小自然を配した構図を、破墨(淡墨で描いた上に、漸次濃墨を加筆し水墨の濃淡で立体感や凹凸を表現する)や、?墨(画面の濃淡の変化を積極的に用い、伝統的輪郭線の表現を抑える、水墨としては前衛的で奔放的な山水画法)の手法を自在に駆使して、陰影のある立体感や神韻縹渺たる生動感を表現するものとして、ある種の東洋的な景観と、それに触発される精神世界が措定されている。


水墨山水画の世界

北宋の李成、董源、巨然らの、無窮の山水の広がりを一幅の画面に写し取る描画術の展開、また北宋宮廷画院の天才・郭煕が、画論『林泉高致』で提唱した高遠(山の麓から山頂を透視)、深遠(山の手前から山の背後を窺う)、平遠(前山から後山を洞察)のいわゆる三遠法、さらに、南宋時代には馬遠、夏珪の残山剰水(余白との呼応による自然の広がりと画面にムーヴマンを誘う)や辺角構図(主要風景を対角線の下半分に近接して描き、画面に緊張感と余韻のある詩情を表出する)の作画描法などの案出により、いわゆる「山水臥遊」の心境表出を目指す、中国山水画の基本理念が確立し、その独特な幽玄世界が伝来されてきた。

わが国でも、既に飛鳥時代から、中国山水画の様式美の影響を受けながら、大和絵にも山水画の画題はあったが、特に鎌倉時代以降、宋元の水墨山水画が導入されてから、山水画の隆盛、盛行を見た。

殊に、水墨山水の画幅を臥し(寝そべり)ながら眺めて、その地に遊んだような気分をエンジョイする「山水臥遊」の境地は、禅、茶の湯、南画、さらには文人画と展開した日本の精神文化の土壌の中で、山水の南宗画や北宗画に、なにがしかの畏敬と憧憬のステータスさえ与えたのである。

とはいえ、斧の痕のような鋭い側筆(筆を傾けて描く)を巧妙に使い、嵯峨たる、また峻崖(険しい崖)を形造る岩石の質感を表現する斧劈皴の手法、また、雲や霧の生動する雲気のミステリアスで、季節により、もしくは時時刻刻に千変万化する雲海の様相を、墨一色で五色の小宇宙に自家薬籠中のものとする?墨や破墨の作画、あるいは、咫尺に千里の眺望を収め、山水自然の無窮の広がりを画面に写し取る東洋の水墨山水画は、あくまでも、絵画、つまりは架空世界のイメージであった。

ところが、中国安徽省蕪湖市出身のアーティスト汪蕪生は、出身地に近い景勝の霊山といわれる黄山の景観を、長年カメラで実写して、東洋の水墨山水画の巍巍たる霊山に仙人の栖む神仙境が、ただにフイクシャスな白髪三千丈式の空想世界ではなく、リアルに実在するものであることをアートフルに実証して、世界の美術界を驚かせたのである。

汪さんの話では、青年時代から、黄山の神秘的な景観に魅惑されて、その美しさを探求することを天職と自覚したということだが、それは、単に写真で千変万化、多岐に様相を変貌する名山の霊験な魅力、もしくはデモーニッシュな魔力をカメラ機器で写す、というだけではなく、じつは、彼自身の内部にある神仙世界を、黄山に仮託して現実の映像に引き出してみせた、というところに大きな意義があるのだと、私は思う。


米国の峡谷風景写真

峨峨たる山、突冗たる岩峰といえば、19世紀後半の米国で、シエラ・ネバダ山脈の西斜面に広がるヨセミテ渓谷の景観を、18×22インチのマンモス・プレート写真で撮影し続け、しまいには彼の写真が、米国第16代大統領リンカーンや議会を動かし、同渓谷を中心とするヨセミテ国立公園設立と国立公園法の制定に道を開いたというカリフオルニアの名写真家カールトン・ユージン・ワトキンス(Carleton Eugene Watkins,1829−1916)の作品を思い出す。

4000メートル級の山山が連なるシエラ・ネバダの氷河作用によって造られた深い渓谷や巨大な断崖絶壁、巨岩、滝、清流、セコイアの針葉樹林など、全長11キロ、幅1.6キロにわたるヨセミテU字渓谷を愛し、自らの写真工房をワトキンス・ヨセミテ・アートギャラリーと名付けたワトキンスは、数々の名作を遺している。

中でも、彼が32歳のとき写した「カテドラルの尖塔ヨセミテ」(Cathedral spires,Yosemite,1861)、また37歳の作品「マリボサ林道よりヨセミテ峡谷を望む、カリフォルニア」(First View of Yosemite Valley,California,from the Mariposa trail,1866)などは、ヨセミテ峡谷の鋭角的な山峰や尖鋭な巨岩、切り立った巨崖、針葉樹林やセコイアの独立樹などの景観を見事に捉えて間然するところがない。

特に、前者の針葉樹林の背後に聳え立ついくつかの、尖った先端をもつ岩峰や山峰は、汪蕪生が、黄山で撮影したそれと相似、というよりは全く同一といっていい形態をしている。
しかし、E・ワトキンスが、カテドラル(大寺院)の尖塔とタイトルした作品は、あくまでも、ヨセミテ峡谷の大自然を客観的、といって差し支えがあれば、人間との対立物として存在する大自然の質量感と美しさを、即物的にカテドラルになぞらえ、リアルかつ平明に、彼らしい感性と写実的な切り口で描き出したもので、雄大な景観のジオロジカルな記録写真という側面を露にしている。

さらに、その写真を詳細に見ると、前景は横たわる老枯木と立ち枯れ状の切り株のあるブッシュで、画面中央は丈の高い針葉樹の森。その遠景には、左に双頭の槍ヶ岳といった尖端の鋭い二つの岩峰、右には、よく見ると切り立った断崖絶壁と尾根にまばらに針葉樹がわずかに生えている岩山がみえる。

まさに、これは、北宗画や南宗画が好んで描くモチーフにも通ずる景観だが、ワトキンスは、造物主の作品である大自然の光と影の質量感と景趣を、淡淡とマンモス・プレートの写真に、文字通り写実するだけである。

また、ワトキンスと同じような立場で、米国北西部のイエローストーン国立公園の生みの親といわれる写真家ウイリアム・ヘンリー・ジャクソン(William Henry Jackson,1843−1942)も、コロラドのリオ・ラス・アニマス渓谷などの景色を撮影しているが、岩石重畳たる断崖に僅かに切り開かれた鉄路を、大自然に比べたら豆粒のような旧式の蒸気機関車二台連結の列車が、あえぎながら登るという光景を記録している。

そこには、大自然に対する畏敬とか賛嘆とか、もしくは人間との共生、融合への共鳴というよりは、コロラドの大自然に文明の斧を入れた、自然と対立し、これを征服して前進する人間の誇らかな、いや、少なくとも、ありのままの軌跡が、印象的な風景写真として、銀の粒子の映像に置き換えられている。

無論、1822年に誕生した写真術が、写真独自の表現美学を自覚した近代写真の出現は、20世紀初頭まで待たなければならないとしても、やはりヨセミテなど米国西部山岳地帯の自然景観を主なテーマにした米国の写真家アンセル・アダムス(Ansel Adams,1902−84)の「フォト・アウゲ(写真眼)」も、雄大な大自然と人文の交錯対比する風景の即物的描写と、被写体の質量感の西欧風景画的表出ということだったと思う。


山水写真の創始

その点、汪蕪生の挑んだ黄山は、154平方キロの広大な風致地区に、主峰だけでも72嶺ある大山容を擁する中国の名山で、今日では、名勝巡りのロープウェイさえ設置されている。が、汪さんのカメラ・アイは、単なる大自然の記録写真でないことは勿論のこと、また、自然と人文との交錯対比の映像や作画ですらないのである。

彼自身の言葉を借りれば、汪さんは、黄山の気に入った景勝、というよりは形象の場所に辛抱強く何回も何日も何時間も通い、待ち、機材のデータを変え、自分が気に入った雲や霧や霞がかかる「決定的瞬間」を狙うのだという。

それは、道教に深い関心をもつ汪さんが、理想に描く神仙世界が、雲や霧の中に忽然として出現する瞬間や場面をキャッチ、というよりは、大自然という広大なキャンバスに、汪さん自身のイメージを、時時刻刻に千変万化する山気や雲気の形象に仮託して、ミステリアスな理想世界を創造するという営為に近く、またそれは、「咫尺に千里の望を収め、山水自然の無窮の広がりを画面に写し取る」という中国水墨山水画の精神や神髄ともまた相通ずるものがあるといえるだろう。

どの写真でもいい。汪蕪生の黄山に打ち込んだ作品を眺めていると、霧や靄や雲海の彼方から、雲に乗じ、風を起こすという雲客(仙人)がどこからか忽然と姿を現すような気がしてならない。

じつは、私は最初に画廊で汪さんの作品を見て、以上のような印象と感想をもっていたが、その後、講談社の担当者と一緒に私の事務所を訪ねてこられたとき、私の作品感をお話したところ、汪さんの作画姿勢や芸術観と私自身の鑑賞姿勢や汪さんの命名した「山水写真」に対する私なりの評価がほとんど一致し意気投合しあい、「これでは客観的な評論はできませんよ」などと冗談を言ったことだった。

汪さんは、東京女子大学比較文化研究所の『比較研究』(36−2。1990年3月号)に「山水写真の試み」と題する論稿を寄稿している。少し長いがその一部を引用させていただこう。

ヨーロッパの絵画においては、15世紀に始まるフランドル派にせよ、19世紀末の印象派にせよ、自然の景色に関わる絵画は、一般に「風景画」と呼ばれる。しかし、東方、おもに中国では、山や川を描いた伝統的絵画は「山水画」と呼ばれている。油絵を中心とする西欧の風景画は、丹念に自然の光と影を描いて、その質量感を表わす。写実を重視して、外観の類似を追い求める。

だが、中国の山水画は、「写意(心境を描くこと)」を重視して、「意境(芸術的境地)」を追い求める、「風景に感慨を託すこと」、「風景を借りて感慨をのべること」が大切にされるのである。

中国の山水画といえば、私達の脳裏には次々と、たちどころにつぎのような画面が浮かび上がるだろう。鋭くそそりたった峰々、茫漠たる雲や霧、松の老木の枯れ枝、瀑布に飛び散って流れる水、薄暗い小道、小さな橋に人家・・‥・・。

これこそが千年の昔から、中国人、日本人を含めて、東方の人々が夢枕に求め、魂の奥底に描いた一枚のユートピアの風景であり、また、精神的な拠り所の一つだったのである。

中国山水画の誕生と発展は、中国古代の道家神仙思想と極めて密接な関わりをもっている。老荘を代表する道家哲学は、人為的なものすべてを否定し、一切が自然に帰ることを主張した。

俗世間を抜け出して、山水の自然のなかに隠遁することを提唱したのである。山は仙人たちが寄り合う所、妖怪変化の住みかと考えられた。そこでは永遠にこの世の苦しみや悩みから脱却して、長寿と楽しみを求めることができる。山は宗教性を帯びた幻想の世界となったのである。

たとえ現代の東方の人でも、山水画を楽しむときに生まれる美感の最も奥底には、やはり、古代中国人が山岳に対して抱いていた、宗教的情緒と切り離せないものが残っている。

早くは魏晋南北朝時代より、文学、絵画などの方面では既に、老荘思想の影響を受けた比較的自由な芸術精神が芽生えていた。人々は自然を一つの美として観賞し始めていた。「山水」という言葉が現れる最も古いものは、この時期の左思の詩『招隠』である。「糸竹(楽器)に、などか頼らん、山水にすがしき音あり。なにゆえに謡を求めん、梢悲しく妙の音奏でり」日本の神仙思想と情念

いずれにせよ、西欧文明と文化の根底には、自然と人間との対立思想があり、東洋文化の根幹には自然と人間の融和の考え方が存在し、造形のコンセプトにも、どこかでそれが投影するはずである。

汪さんのいう東方の思想圏には、無論、中国の外に、韓国や日本も包含されるが、古代中国・西晋の、高い風格をもった詩人左思の3世紀から500年ほどのタイムラグを隔てて、日本にも神仙思想は根付きはじめていたようである。

既に9世紀の初め、わが国古代史に稀な政治的安定期を出現させたという、平安王朝の嵯峨天皇(786−842)の時代は、中国(当時は唐)風の文化が栄えた時代であるが、空海、橘速勢とともに三筆といわれた能筆の嵯峨天皇自身は、漢詩もよくして、次のような作品を遺している。(読み下し文にし、下にあらましの現代語訳を入れた――岩波書店・日本古典文学大系第69巻『文華秀麗集』による)

幽栖(ゆうせい)す 東岳(とうがく)の上

禅座して 林巒(りんらん)に対(む)かふ

法宇(ほうう) 経を伝ふること久しく

深山 食(じき)を乞ふこと難し

渓流に猿(ましら)と共に漱(くちすす)ぎ

野(や)飯(はん)を 鬼と相食(くら)ふ

磬(けい)を撃つ 雲峰の裡(うち)

暮春 寒さ退(の)かず

世間の煩わしさを避けて比叡山上に静かに住み、座禅をして林や山の峰に対座する。寺院(延暦寺)では、経典を伝えることは久しいが、この深い山では、修行のひとつである食を人に乞うこと(托鉢)も難しい。

だから、谷間の流れで猿と一緒に口をすすぎ、粗末な野趣の溢れる食事を、山に栖むというもののけ(鬼)と共に食う。

雲中にそびえる高い峰のうちで、岩山の玉石で作った打楽器の磐を打ち鳴らしてあそぶけれど、陰暦3月の春の暮にはまだ寒気は立ち去らない。

ここには、約1千年以上昔の日本王朝の権力者であり、唐風文化の洗礼を受けた当時のインテリでもあった人物の、ある種の神仙思想の片鱗が窺える。

文献上では、4世紀の中国(漢)で、道家神仙の思想書として貴ばれた葛洪の著書『抱朴子』の書名が日本で初めて史料的に記録されたのは、9世紀末の宇多天皇の時代といわれるが、既に、中国で神仙思想が説かれたのは、それより千数百年も前の紀元前3世紀のことである。

夙に卑弥呼の時代以前から交流のあった中国から、仏教思想とともに道家神仙の考え方が伝来流入したことは想像に難くなく、現世を超越して、鬼や霊の気である、もののけ(物怪)と一緒に雲の峰の僧院で、岩山の玉石で造った楽器を自由に楽しんだり、山上に座禅をするという感懐は、まさに道家神仙思想そのものであろう。

こうして、今から千数百年以前の、極めて古い時代から、中国や日本では、大自然に還り、自然と融和し、深山の山気や嵐気、さらには霊気が、粋然として集まる神仙境に、雲と飛び、風に乗り、自在無碍に不老不死の生命をエンジョイする仙人の境涯を理想と観ずる思想、もしくは情念が、脈脈とわれわれ東方の人士の胸の裡に伝えられているのである。

たまたま、それがわれわれのこころの中に眠っていたとしても、汪蕪生の創作した黄山の山水写真を見ると、われら東方人の血脈の中をひそやかに流れる伝統的な神仙境への畏敬と憧憬とさらに、それが実在していたという賛嘆の感動が一挙に呼び覚まされるわけである。

ましてや、テクノロジカルな管理社会に閉じ込められた大方の現代人、特に東洋の人間にとって、神仙境は究極の郷愁ですらあるだろう。


「気韻生動」の空気遠近法

中国の六朝時代(3−6世紀)に既に、宗教的な象徴の意味を込めて描かれた神仙山水図は、既述したように宗柄の「山水臥遊」の画論などに刺激されて、神(宗教的象徴)と人間の中間にいる、自在に空中を飛び遷る僊人が栖むという、雲や霧のかかる深山をモチーフにした中国山水画のオリエンテーションができあがっている。

次の唐代(7−9世紀)の、自由奔放な作風の呉道玄や精緻な細密画風の李思訓の山水画に次いで、10世紀末に建国した北宋時代に、中国山水画は全盛期を迎えた。

続く南宋期には、画面余白との呼応によって大自然の広がりを象徴する描法が定着し、さらに元の時代には文人山水画が台頭してきて、これら宋元の水墨山水画が鎌倉時代に導入され、折から室町期にかけて勃興した宋朝禅の思想や信仰運動の行われる社会相の中で、神仙の桃李郷を空想し、禅の悟りの自在の境地をも象徴する山水画の美学は、日本文化のベーシックな特質の一つといってもよく、それは室町から江戸期の山水画や文人画にまで引き継がれるのである。

こうして、中国水墨山水画から日本の文人山水画まで、「風景に感慨を託す」、難しい東洋美術用語を使えば、「胸中丘壑」胸の中に、仙人や隠者の楢む山岳や峡谷を造る、つまり、作品への作者の感情移入の理想的な形式、乃至は精神(心構え)として、古来「気韻生動」という言葉が重視されてきた。

気韻生動とは、「絵や書などで、気品がいきいきと感じられること」(『広辞苑』)だが、これは西欧風景画のいわゆる心象風景のニュアンスとはいささか異質といってよく、パースベタティヴ(遠近法)あるいはレオナルド・ダ・ヴインチの創案になるという空気遠近法(エアリアル・パースベタティヴ)や外光描写などを根幹とする、西欧風景画の範疇にはない「東方」の美学から生み出された言葉といってよい。

語源は、中国南北時代、南斉(5世紀末)の画家・画論家、謝赫の著『古画品録』で、彼は、その序文で、絵画制作と鑑賞の六つの要諦の第一にこの言葉を挙げ、写意の重要性を強調したのである。

ところで、画面にいきいきとした気品がリズミカルに生動するためには、山水画では草創期から気象や気勢、つまり大気の表現を重視したが、中国的な遠近法である既述の三違法とともに、森羅万象に薄い紗をかけたような雲、霞、霧、靄などの類いの大自然に浮遊する水蒸気の千変万化を、五彩の水墨で表現することによって、景色のソフトフォーカスな遠近感や、透明な神秘感の世界を作者の「写意」のままに創作するということだと思う。

大気の動き、あるいは水蒸気の特質を巧みに駆使した空気遠近法の名手で西欧の画家といえば、『雨・蒸気・速度』(1844年)の名作を描いた19世紀英国の風景画家ターナーを思い出すが、『難破船』(1805年)や『戦艦テメレール』(1839年)など、空気と人文との交錯する「真景」を、油彩で描いたターナーの、いわば印象派を先取りした風景画は、それ自体すばらしいロマン主義の名品だとしても、同じ浪漫の範疇ながら、気韻生動の精神性とは同質ではない。

近代写真でいえば、エドワード・ウエストン(Edward Wes−ton,1886−1958)の「死の谷」の砂漠シリーズなどは、自然の形象を光と影の即物的かつ繊細な描写を通じて、被写体の質量感を造形的にアブストラクト化しながら事物の実存感を表現するという手の、高次の風景写真ではあるが、やはり、自然の対立物としての人間の眼の存在は否定し難い。自然と同化するアーティストの感慨が、画面に気品のあるリズム感をもっていきいきと躍動するという趣きは薄いのである。


幻幽と神韻

前の写真集『黄山幻幽』で、写真家・汪蕪生は、中国・春秋、戦国時代(BC.770−221)の道家の祖、老子、荘子の思想に淵源する虚無思潮と神秘主義と、なにがしかの浪漫主義が渾然と合体してイメージされた理想郷である神仙境が、ただに空想や幻想の世界ではなく、現実に存在することを、中国の名山・黄山に仮託して創写し、世界の映像世界に新鮮な驚きの波紋を巻き起こした。

この度の写真集『黄山神韻』では、さらに汪さんは、「写意」の心境と芸術的意欲の「意境」をより高めて、自らの内にあるcelestial=セレステイアルな(神々しい)天上の霊山・黄山の、ethereal=イシアリアルの(この世ならぬ)美しさを創作、表現しようと果敢に挑戦し、ほぼ見事に成功している。

文字通り、山水写真の画面を寝転びながら眺めて、神山・黄山に遊んだような、「山水臥遊」の気持で、新しい写真集のページをエンジョイするのは楽しい。

なぜならば、自ら苦心して撮影した数万枚の原版を選択し、焼き付けるプロセスを通じて、アーティスト汪蕪生自身の「写意」や「意境」が、より深化し、グレードアップしているように、作品が選ばれ、配列されているからである。

総体として、汪さんが自ら命名した山水写真のイメージとコンセプトは、今度の写真集によって、さらに一層奥深く明確になったと思う。

例えば、水墨山水画と同様、画面に気韻生動のムーヴマンを誘う決め手の重要な要素のひとつである雲や霧、霞、靄などの画面余白と呼応する表現法が、伝統的水墨技法の「残山剰水」のフォルムに則り、全体の空間処理が絶妙なバランスで行われ、同時に、それら大自然の水蒸気の質感や量感、さらには微妙な陰影やグラデーションの表出作法に、こまやかで行き届いた神経が窺えるのである。

また、画面に緊張感とともに詩情を漂わせる、これもやはり伝統的な山水画法である「辺角構図」の対角線描法、あるいは、前山から後山望観の平遠法、麓から山頂透視の高遠法、手前から背後を窺う深遠法など三遠法を自家薬籠中のものにした汪さんが、黄山の水蒸気の多い嵐気から、神韻縹渺たる神仙峡谷の神秘感と僊人(仙人)の実在感を創出するのに成功したことにも改めて拍手を送りたいと思う。

さらに、険阻な岩峰や条理のあらわな巨岩や岩崖の質感を表現する水墨山水の伝統技法である斧劈皴の美については、日本の山水画家の中でも、周文(15世紀前半)、雪舟(1420−1506)、曽我蛇足(室町後期)らのそれが秀逸だと私は思っているが、汪さんの岩峰と厳に根を張る松樹などの、それぞれの心象風景を措定した写意と意境もなかなかのものではあるまいか。

最後に、今回の写真集には、一部カラー写真が入っているが、水墨山水の美を目指した汪さんの山水写真に色彩を加えるのは、淡彩で五彩の世界を活写する墨絵を、水彩絵具で描画する愚挙に等しいという非難は確かにあると思う。

墨一色で描いた作家の写意や意墳を、鑑賞する側が、ソウルやハートもしくはスピリットで以心伝心に受けとめて、限度のある色彩では不可能な、作家との無限のこころの交流を可能にした水墨山水の本義を忘れたのかという批判もあるかもしれない。

また、モノクロだからこそ、神韻縹渺としたミステリアスな神仙境のロマンとフィクションがイメージできたのに、マジックの種明かしのようなことをする必要があるのだろうかという疑問がでるのも当然かもしれない。

しかし汪さんは、敢然とカラー写真の刊行にも踏み切った。自信があるからに違いない。

自らの写意と意境で創出した、胸中丘壑、つまり、汪さん自身の胸の奥に秘められた、神仙の栖む峡谷の真景をカメラ機器という手段で、ゆるぎなく引き出し得たという自信である。
アーティスト汪蕪生の道家神仙思想、詩人としての感性、風水・気象などの自然観、さらに、私との何回かの面談でわかったことだが、21世紀はテクノロジーの時代であるとともに、限りなく宗教的な世界になるという鮮烈な時代感覚。

そうしたものが一体となって彼の胸中丘壑が築きあげられ、その心象の投影として黄山神韻が形成され、さらに心象風景の必然として、神仙峡谷の色彩景観が加えられたのかもしれない。

試みに、高校一年生の私の次男に、『黄山神韻』のゲラをみせた。私は美術雑誌の編集長もやっているので、女房や息子達にもよく美術作品のゲラを見せて、それなりの感想をしゃべってもらうことはめずらしくないのである。16歳の彼は、モノクロの何点かを「いいな」と指さすとともに、カラーの雲海に浮かぶ岩峰の高遠図にじっと見入り、叫んだ。「この岩の上にお寺みたいのがはっきり見えるのがすばらしい。本当に仙人が出て来てもおかしくない実際の景色なんだね」

モノクロだけではディティルがわからなかったので、墨絵なのか写真なのかはっきりしなかったという少年も、カラー作品ではじめて汪さんの作品は写真であり、また写された深山は神仙の栖家という実感をもったらしい。

山水写真のアーティスト汪蕪生の、“我が胸の底のここに神山境をクリエートする“胸中丘壑はどうも実在しているようである‥‥‥。