佐々木晃彦(九州共立大学教授)

 1990.01.16「河北新報」


写真文化をリードする外国人

国際化の流れ芸術の分野にも

 

タゲールか銀板写真を発明して百五十年。以来、カメラ機能は充実し、日常生活に定着してきた。自然の再現に最もふさわしい道具として、その評価を得たと言える。

と同時に、ようやく日本でも、写真が記録と報道の領域から、芸術の領域に入りつつある。これには、アメリカ人と中国人の、日本在住外国人写真家抜きでは語れない。ブルース・オズボーンと、汪蕪生(ワン・ウーシェン)の両氏である。

一九五〇〇年、ロサンゼルスに生まれたオズボーン氏は、パシフィック大学で現代美術を、デザイン・アートセンター・カレッジで写真を学び、一九八〇〇年に来日した。

一切の無駄な要素を排除し、相違点を鮮明にさせて撮るさまざまな職業の親子(写真集「親子」発行 デルポ出版局)に片りんをうかがうことができるが、オズボーン氏には、日本の街角に見る普週的なものを異常なものに変化させ、意外性をスマートに表現する、研ぎすまされた才能がある。

流行通信、ホットドックプレス等にも意欲的作品を発表し、天性とも思える独特の感性が創(つく)る表現力は、大手企業宣伝担当者の目に留まった。電気・精密機器・流通・化学等広範囲にわたり、企業イメージの高揚や商品拡販を目的として、大型ポスター、カタログ等に使われ、ついには、企業の顔とも言うべき、カンパニー・プロファイルの制作まで手掛ける現象が起きている。

一九四五年、中国安徽省出身の汪氏は、皖南大学物理学科を卒業。超エリートコースを捨て、写真家になったのは、黄山に魅せられたことによる。日本では富士山にあたる「水墨山水画のふるさと」共山は、自然という巨匠か彫刻した芸術品である。

風景写真への信頼感は、実景を伝える物理的原理に基づくが、黄山周辺の気象変化は激しく、二度と同じ姿を見せない。このような条件下で最も美しい瞬間を撮るには、写真家の忍耐力を超えた“個性と創造力”が不可欠である。汪氏を、中国の天才カメラマンと位置付けるにとどまらず、写真を頼る世界から描く世界に発展させた初めての人と言いたい。「絵は絵の具で、写真は光で描く」 (汪氏談)を具現化し、二万点の黄山と共に来日したのは、一九八一年暮れであった。作品は、横浜市勧行院轟書院のふすまとなり、写真集「黄山幻幽」 (発行・講談社)として発表され、日本が発信源となって、世界に認知されつつある。

オズボーン、汪の両氏は、期せずして日本の各カメラメーカーが、ハード開発と並行して、ソフト開発にも力を入れ始めた一九八〇〇年代初朗に来日、以降、長期滞在している。

小沢征爾、森下洋子など、外国が生んだ文化芸術領域で世界を舞台に活躍する日本人は多い。国際化の流れは、日帝生活に直結した経済から、文化芸術の領域にも及び、多元的価値の創造がはぐくむ、多元文化時代に入っている。日本の写真文化を、二人の外国人がリードしても、何ら不思議ではない。日本的なアイデインティティーは、日本人しか創れない時代は終わった。むしろ、日本人にアイデインティティーがあるのか?と問うべき時代である。

カメラ生産国ナンバーワンの日本に、昨秋初めて「カメラ博物館」がオープンした。今年六月に、日本で初めての、東京都立写真美術館(仮称)開館が予定されている。多くの日本人写真美術作家が輩出され、美術領域に食い込む作品があふれることを期待したい


ささき・あきひこ氏昭和21年、山形県川西町生まれ。エックス・マルセィユ大学修士課程修了。評論家。西武セソングループで文化芸術を担当する傍ら、広く評論活動をしている。