佐々木晃彦(九州共立大学教授)

1989.01.01「高砂」


中国の名山・黄山をカメラで描く  汪蕪生さん

日本は経済大国にふさわしい文化大国になってほしい

 

たなびく雲海の中にそそり立つ急峻な山々。中国安徽省にある黄山は、その神秘的な景観できわめて名高い。

水墨画の故郷々とも称される黄山に魅せられた中国の写真家・汪さんは、黄山の幽玄な美しさを写真で描こうとカメラで挑み、およそ二万点にものぼる写真を撮る。

そして、みずからの東洋美の表現を広く世に問い、さらに写真技法の奥儀をきわめるため、新天地を求めて日本へやってきた。やがて八手になる。

武者修業の生活を通じて、日本の社会を見すえてきた汪さんの焦点深度は深い。

●バックグラウンド

一九四五年、中国安徽省蕪湖市生まれ、皖南大学物理学科卒業、七三年安徽省新聞図片社、安徽画報社のカメラマンとなる、七四年より黄山を写しはじめ「人民日報」「中国画報」 に写真を発表。八一午来日。八三年国際交流基金研究員、日本大学芸術研究所で研修。八四年帰国して、約一年間にわたり黄山を撮影。八六年から東京芸大美術学部で研修。八八年西武百貨店で「水墨画のふるさと黄山幻幽」展を開催。写真集「黄山幻幽」を発刊。独身。

――汪さんにお会いしたのは、東京原宿にある会館の一室。かたわらには、汪さんか撮影された黄山の写真入り屏風か立てかけてあり、新年の雰囲気かただよう。

あらかじめ汪さん自身の顔写真を見て、芸術家タイプの気難しい方かと予想していたか、外れ。とても明るくて気さくな好男子。

さっそく日本に来られたいきさつから聞いてみる。

水墨画の故郷、葉山にとりつかれて


八年前の中国では、フリーカメラマンの存在は認められていませんでした。本格的に黄山の写真を撮りたかった私は、日本で写真や芸術について、もっと広く深く勉強してみたかったのです。
日本は東洋の文化だけではなく、西欧の文化もたくみに取り入れてきていますし、自由に世界中の芸術にふれるチャンスがありますからね。

それに私の撮った中国の黄山を、日本および世界のたくさんの人々に見てもらい、認めてもらいたい、という目的があったのです。

カメラマンになって、初めて黄山を見たときの感動は、いまもなお私の心の乾板に焼きついています。雲海をすそ野にして浮かび立つ威容を目のあたりにしたとき、−瞬、体の中を電気が流れました。黄山は昔から仙人の住む神秘的な山と教えられてきましたが、まさにそんな感じでした。私はこのすばらしい黄山をテーマに、ぜひカメラで表現してみようと心に誓いました。
日本では黄山の名前はほとんど知られておらず、むしろ桂林の方が有名ですが、中国では、黄山はちょうど日本の富士山のように親しまれ、精神的なよりどころともなっているのです。

――黄山に魅せられた汪さんの写真談義は、ゼスチャーを交えてはずむ。カンフー演ずるジャッキー・チェンをほうふつさせる風貌。

淡々とした語り口のなかに、苦労の跡らしいものは微塵も感じられないが、標高一千数百メートルクラスの険しい山々の撮影は並大抵のものではなかったろう。

黄山の撮影は絵を描く心境で


私の撮った黄山の写真には、ほとんど雲や霧がかかっています。しかし、気象の変化が激しい黄山には、いつもそんな光景が待ち受けているわけではありません。天気が良すぎると、見えるのは岩肌や松の木ばかり。反対に雨になると山並みはすべて雲に覆われてしまう。といったように、たえず変化しています。カメラチャンスを狙って、二、三か月も待ち続け、結局一枚も撮れなかったこともあります。

ここぞという瞬間を自分の目で見極め、いかにカメラにおさめるか、それはまさに自然界での真剣勝負です。

山々の光景に夢中になってファインダーをのぞいているうち、ふと気づいて足元を見ると、断崖絶壁から数センチの所に立っている、といった場面にも遭遇しました。

シャツターを押した感動の一瞬を、暗室の中で印画紙に再現していく現像の仕事も、大変時間と労力のかかる仕事です。

私の写真は「現代の水墨画」というふうにもいわれますが、私はほんとうに絵を描く気持ちで写真を撮り、現像を行なっているのです。

他に類をみない集団主義、自己犠牲


来日当初は日本語かひと言も話せず、中華料理店でアルバイトをしながら、日本語学校に通って学んだという汪さん。八年近い日本の生活で、日本人社会はどのように写っているのだろうか。

同じ東洋でも、中国と日本の文化の違いといったものをはっきりと感じました。各国、各民族には、それぞれ独自の文化や伝統、習慣があり、そのいずれにもよい面があり、悪い面もあります。国際的なつながりにおいては、あまりどちらかの文化や考え方に片寄らず、ほどほどに生かし合っていくことがよいのではないかと思います。

日本人を見て一番強く印象づけられたことは、みんな集団主義とでもいうべき強い組織力苦を持った国民である、ということです。是は個人主義的な考え方の強い中国人とは大きく違う点で、見習わなくではなりませんが、おそらく、このような自己犠牲的国民性は他に類をみないのではないでしょうか。この集団主義が、今日のすばらしい経済大国を作り上げたんですね。日本人はいったん会社に就職すれば、自分や家族をある程度犠牲にしても働きます。小さなグループとか仲間の集いの場合を例にとっても、その集団に奉仕しようとつとめているように見えます。これをもう少し全体的にとらえると、日本人はみんな国のために一生懸命働いているように写ります。これはすばらしいと思う反面、恐ろしい一面をそなえているような気がします。

――いや、これは図星。思い当たる節あり。被写体は黄山ばかりかと思っていたら、なんとレンズはちゃんと日本人にも向けられ、すっかりフォ−カスされていたのだ。

経済大国から文化大国への発展を


正直いって、これまでに撮ってきた黄山の写真は、私が黄山で受けた感動の半分しか表わしていません。これからは日本で得たものを生かし、黄山をライフワークとして撮り続けていきたいと思っています。

昨秋東京で開いた黄山の写真展を、日本の各地で巡回し、さらに、アメリカやヨーロッパでも催してみたいです。

日本は文化的な意味で、まだ十分な国際化をはかっていません。例えば欧米の芸術家には寛容すぎるほどなのに、アジアの芸術家には厳しく、私などもまだ芸術家としてビザが下りず、大変残念です。

日本は経済大国の名にふさわしく、さまざま。

●取材者プロフィール

小河 信膚治(おがわ・しんじ)  昭和四六年入社。本社企画室。

汪さんも私も、お互い東京生活初心者同志、なまってる日本語に筆談をまじえてのインタビュとなりました。以前ガら中国史に興味を持っていたこともあって、話はどんどんはずみ楽しい一時間でした。早いもので私はあと三年で勤続20年となります。その時には中国旅行でもしようガな。でも資金が・・・・・・


(撮影・本社管理部柳田美由紀)