森本哲郎(文明史評論家)

1988.10. 《黄山幻幽》解説文


黄山紀行

中国を訪ねる日本人に、たいへん人気があるのは桂林だそうである。なぜたら、そこには山水画のふるさとといわれるにふさわしい山の姿が、漓江に深い影を落としているからだ。私も何度か桂林の風景を心ゆくばかり味わった。そして、あらためて、古くから中国で描きつづけられてきた山水画が、けっして山の形を誇張したり、デフォルメしたりして描かれたものではなく、実景をそのまま写しとったものであることを知った。

しかし、そのような中国の絵画に学んだ日本の山水画は、あくまで心象風景であった。なぜなら、日本には桂林に見られるような山は、ほとんどないからである。日本は山国で、山の相貌もじつに多様なのだが、それでも中国の山々と日本のそれとでは趣きがかなりちがう。にもかかわらず、日本の画家たちは、中国の山水画を手本とし、そのイメージを忠実に受けとったのだった。
それだけに、山水画のふるさとに対する興味はいっそう強くなる。桂林が日本人のあいだにもてはやされるのは、山水画の実景に接したいという欲求のゆえ、といってもいい。

けれども、そうした山に寄せる想いもまた、中国と日本とでは、いささかニュアンスを異にする。いや、大いに、というべきかもしれない。山が心の奥底で信仰に結びついてきた点においては変わりないが、日本人がどちらかといえば、山に美しさ、やさしさ、懐かしさを求めるのに対し、中国人は奇勝をたずね、きびしさを欲し、怪石を珍重する。そして、そこに仙境を夢みるのである。

山に関心を抱く民族は、けっして少なくない。しかし、中国人ほど山を意識しつづけてきた民族はいなし、といってもいいのではなかろうか。それは、山のさまざまな相貌をあらわす言葉の多さからも察することができる。たいていの民族は、山を意味する語彙をせいぜい二つか三つ持っているにすぎないが、漢語にはおびただしい数の表現がある。「山」というのは、大地の隆起したものの総称で、それがどのように隆起しているのか、その姿、形、状態、情況に応じて、中国人はじつに多くの言葉をつくりだしてきた。

たとえば、直立して鋭い形の山は「峯」である。高くて神聖な山は「嶽」である。道が頂に通じている、その山頂が「嶺」である。山頂は「巓」である。けわしい山を「巌」という。小さいが、高い山を「峯」と呼ぶ。そして、山の背を「岡」と名づける。これらは、いずれも『漢字典』(田中慶太郎編)によったものだが、山水を論じた中国の「画論」「画説」には、さらにくわしく語義が説かれている。

山水画の祖ともいわれる唐の詩人で画家でもあった王維の「山水論」には、こうある。

なだらかであって頂の尖っているのは巓。けわしくて相連っているのは嶺。山の洞穴になっている所は岫。絶壁になっている所は崖。石が上から差しかかっている所が岩で、頂のまるい山は巒。……道が両側から山で挟まれている所を壑といい、水が両側から山で挟まれている所を澗という。嶺に似て高いのを陵と呼び、目のとどく限り平らかなのを坂とよぶ。これら諸因子について研究すれぼ山水の大体を把握することができるであろう。(王維『書学秘訣』青木正児訳)

さらに、山の大きく高いのを「嵩」といい、頂上に近い部分を「翠微」と称し、ふたつの山が重なっているのを「英」、小さな山が大きな山を隔てているのを「鮮」、土の山を「阜」と呼ぶ、といった定義もある。

何という微に入り、細にわたった表現であろうか。これほど仔細に山の姿を検分して、それを言葉であらわしている民族は、ほかに見られないといってもいいのではあるまいか。

なかなか黄山にたどりつかないではないか、と、お叱りを受けるかもしれない。しかし、黄山にはそうかんたんに近づけないのである。黄山を訪ねるためには、まず、中国文明と山との深いかかわりに目を配らなければならない。そうでないと、山二入リテ山ヲ見ズ、ということになりかねないからだ。そこで、もうすこし、中国の人びとが山にそそいできた視線を顧てみよう。

それには、何といっても「山水画論」をよすがとするにしくはない。千数百年来、山を熟視しつづけてきたのは、山水画を描くことに精魂を傾けた中国の画人たちだったのであるから。

宋の画家、郭煕も『林泉高致』と題した画論のなかで、山の表情の読み方をくわしく論じている。それによれば、山に接するときには何より心持ちが大切だという。つまり、「林泉を愛する志」、「烟霞の友たらんとする願い」である。その気持ちがあって、はじめて山の姿をよく見きわめることができる、というのだ。山はただ、そこにあるのではない。季節により、また、一日の時刻により、不断に相貌を変える,。譬えていうなら、「春山は澹冶して笑うが如く、夏山は蒼翠にして滴る如く、秋山は明浄にして化粧せる如く、冬山は惨淡として睡るが如くである」(青木正児訳)

さらに、郭煕はこう記す。

山は近くで見れば此の姿、数里遠ざかって見れば此の姿、十数里の遠くより見れば更にまた此の姿という風に、遠くなるに従って姿が変わる。いわゆる「山形歩々に移る」とはこれである。また正面は此の姿、側面はまた此の姿、背面は更にまた此の姿という風に、見る場所によって姿が異なる。いわゆる「山形面々に看る」とは、これである。かくの如き場合は一山にして数十百山の形状を兼ねているのであるから、これらすべてを研究し尽さねばなるまい。(同前)

そして、彼は、水は山の血管であり、草木は毛髪であり、烟雲は風采だ、といっている。だから、「山は水を得て活き、草木を得て華やかに、烟雲を得て秀媚となる」というのである。

さて、そうした山をながめ、描くのには、「三遠」の法がある。高遠、深遠、平遠である。高遠というのは、ふもとから山頂を仰ぐ見方、深遠というのは、山の前面から背後をうかがう視線、そして、近い山から遠い山を望見するのが平遠である。べつに、それほどおどろくにあたらぬ論のように思えるかもしれない。しかし、ヨーロッパで遠近法が“発明”されるのは十四世紀であり、純粋な風景画が現われるのは、ようやく十六世紀になってからなのである。そのようなヨーロッパにくらべ、中国の画人たちが、いかに早く自然美を発見し、その描法を論じているかを考えるとき、さきの王維といい、宋の郭煕といい、彼らの卓見、観察眼、感受性に感嘆せざるを得ない。

では、中国でどんな山がすばらしいのか。

地図をひろげてみればすぐ気がつくように、中国大陸では西北と東南に山が集っている。大地は西から東へとゆるやかに傾斜し、そこを黄河と長江が流れているわけである。郭煕はこうした地形も十分に心得ており、したがって、おのおのの風景の特徴も、はっきりつかんでいる。

東南部は地が低く、薄い。すべての水はここに集り、地から湧き出る。そこで、ここに隆起する山は奇峰、絶壁、天高く突き出て、「千丈の爆布が雲の上から落ちてくる」といった相貌を持つものが多い。それに対して西北の山々は水源をなし、多くの山がここに埋まっているので、その地は厚く、「どっかりと胡座をかき、それが山脈になって千里の外まで連なって断えず、小山にさえも平らかな頂というものがあって、うねうねと連続しながら広い原野の中にそびえている」という風景をつくりだす、というのである。(同)

ところで、彼は名山と呼ぶに価する山をいくつか挙げているが、それは嵩山、衡山、泰山、天台山、武夷山、盧山、峨眉山……等々である。これらの山には、それぞれに「妙處」「要處」があり、それを熟知することは不可能だが、すこしでもその真髄にふれたいと思うなら、必要なことは、まず、山を愛すること、ついで、真面目に研究すること、そして何より肝心なのは、これらの山に遊んで、じっくりと観察することだ、と彼はいっている。中国の人びとにとって、山はただながめればいい、登ればいい、というようたものではない。山を見るのにも、山に遊ぶにも、必要なのは山に対する心構えであり、教養なのだ。彼らにとって、山はけっして、あだやおろそかにできないものなのである。

古来、この国には「四嶽」と称された名山が重んじられてきた。四嶽とは東西南北の四方に偉容を誇る山で、東嶽は泰山、南嶽が衡山、西嶽は華山、北嶽が恒山である。古代中国の理想的な天子とされている舜は、この四嶽を巡って祭祀を執り行なった。その四嶽のなかで最も重視されたのが東嶽の泰山で、やがて、それに中嶽の嵩山が加えられ、神聖な山は五嶽とされるようになる。が、泰山の地位はゆるがず、歴代の天子は泰山へおもむいて、そこで封禅の儀式を行なった。「封」とは泰山の頂に祭壇を設けて天を祭る行事であり、「禅」とは泰山のふもとに土墻を築いて地を祀る儀式である。

この封禅の儀式により、天子はまさしく天の子となり、天の命を受けて地上を統治する資格を得る。これを見ても、中国で山というものが、いかに重視され、神聖視され、象徴的な意味を持ってきたか、うかがうことができよう。それがすむと、天子はさらに他の四つの山をまわって祭祀をいとなんだが、これを巡狩といった。むろん、その巡狩には、宗教的た意味だけでなく、帝王の威信を示す効果も考えられていたのであろう。

そんなわけで、泰山は「天下の泰山」といわれ、ゆるぎない地位を占めつづけてきたのだが、やがて仏教、道教がつぎつぎに山に寺院や道観を設けて、それぞれを神聖な山に仕立てていった。五台山、天台山、盧山などは仏教の“本山"となり、そして、黄山、茅山などが道教の象徴とされるようになるのである。

ここで、やっと「黄山」の名が登場したが、まだ、黄山にのぼるわけにはいかない。読者をじらすつもりは毛頭ないが、さきの郭煕もいっているように、中国では、山はそう気安く近づくべきものではないのである。まして、異国の旅人がこの国の名山を訪ねようとするなら、中国で山というものがどういう意味を持っているのか、すくなくとも、おおよそのイメージを身につけて行くべきである。そこで、中国の人びとの思い描く山の心象を、もうすこし探っておこう。

それを興味深く語っている不思議な書物がある。戦国時代、あるいは秦、漢のころに編まれたといわれる『山海経』という一種の風土記である。伝えによれば、夏の禹王の作ということだが、それは単なる伝説にすぎず、本当の筆者は不詳というほかない。

それにしても、だれがこんな奇抜な記録を残したのだろう。風土記にはちがいないが、山川草木について述べているかと思うと、神々について語り、鳥獣から怪物の類いまでが続々と登場するのである。しかも、そうした化け物の挿絵までそえられているのだ。だから、これを怪奇小説とする見方さえある。

内容は、南山経、西山経、北山経、東山経、中山経、その他十八巻から成っているのだが、どの巻もみなまことしやかで、具体的に説明され、しかも想像にあまる情景が描かれている。高馬三良氏の訳文を借りて、任意に紹介すると、こんなぐあいである。

−−さらに東山の四の巻の首は北(号虎)(ほくごう)の山といし、北海に臨む、木がある、その状は楊の如く、赤い花、その実は棗の如くで核なく、その味は甘酸、これを食うと瘧にならぬ。食水ながれて東北流し海に注ぐ。獣がいる、その状は狼の如く、赤い首、鼠の目、その声は豚のよう、名は??(かつたん)。これは人を食う。鳥がいる、その状は鶏の如くで、白い首、鼠の足で虎の爪、その名は(鬼斤)雀(きじゃく)。これも人を食う。さらに南へ三百里、旄山といい、草木なし。蒼體の水ながれて西流し、展水に注ぐ。水中に(魚羞)魚(どじょう)が多い。その状は鯉の如くで大きい首、これを食うものは疣がでない。さらに南へ三百二十里、東始の山といい、山には蒼玉が多い・・…・(東山経)

まあ、こんな調子で、つぎからつぎへといろいろの山が紹介され、そこに生えている草木や、そこに棲む奇怪な動物や鳥が描写されているのである。そんなバカな、と、だれしも首をかしげたくなるが、この書物を整理し、注を加え、序文をそえた晋の郭璞によると、この書を本当に理解できるのは賢者だけなのだそうである。

というのは、人間は見なれたものは信じるが、見なれぬもの、聞きなれぬものは奇として信じない、という通弊があるからだ。ところが−−と、郭瑛はいう。この広大な宇宙を考えてみるとよい。そこには生命あるものは無数にあり、精気は入りまじって激しく湧き立っている。だから、それらが山川に形をあらわしたり、木石に姿を見せたりしたとて、何の不思議があろうか!つまり、常識の世界に安住して、それ以外のものを遠ざけるのは凡人なのであって、賢者ともなれば、どんな不思議も、それを不思議として受け入れる、というのである。

では、この『山海経』は、いったい何を語っているのだろうか。私たちはこの興味深い書物から、何より、中国人の山に対するイメージを読みとるべきであろう。すなわち、中国の人びとにとって、山は神々の棲む神聖な場所であると同時に、魑魅魍魎の跋扈する世界であり、また泰山に代表されるように、そこは死者の霊が集うところでもある、という、そのようなイメージである。やはり晋時代の歴史家、干宝のあらわした怪奇小説ともいうべき『捜神記』なる書物には、泰山がはっきり冥府として描かれている。

と見てくると、山というものが、中国人にとって、いかに神秘な、おどろおどろしい、けれど同時に、この上なく自由で甘美な夢を満たしてくれる仙境であるか、その重層的なイメージをうかがうことができよう。だからこそ、この国の画家たちは遠い昔から、ひたすら山水画を描きつづけてきたのである。

とすれぼ、中国特有の画題である山水は、美の対象というより、信の結晶と見るべきかもしれない。したがって、山水画とは、たんなる風景画なのではなく、宗教画であると解したほうが理解できるような気がする。

さあ、いよいよ黄山である。この名山は安徽省の南にあり、面積は約千二百平方キロにおよぶ。山といっても一山孤峰ではなく、いくつもの峰が連なる山並みを成している。いわく、三十六峰、あるいは七十二峰。だから、この山は、そのなかに入りこまないかぎり、絶景に接することはできない。山ニ入リテ山ヲ見ズ、ではなく、山ニ入ラザレバ山ヲ見ズ、というべきであろう。

むろん、それほど広い山中を踏破することは不可能である。なかで最も見事な山容をながめることのできる「風致地区」は百五十四平方キロ。そこを訪ねるのであるが、それにしても、全名勝を一巡するのは、げっして容易なことではない。さいわい近年、景色をそこなわないようにロープウェイが取りつげられたので、ふもとの雲谷寺から、始信峰や獅子峰などの名峰がながめられる北海賓館の近くまで一気に登ることができるようになった。

しかし、黄山のふもとへ達するにも、これまではかなり時間と労力を要した。主要なルートは杭州から西へ富春江に沿って歙県、さらに屯渓を経て山麓の湯ロヘ、というコース。もうひとつは南京から蕪湖、宣城、歙県を経て黄山へたどりつく、という長い道行きである。が、こうしたアプローチも、近ごろでは上海から屯渓まで空路、短時間で飛ぶことができるようになり、長いあいだ秘境とされてきた黄山もぐっと近くなった。宋代の町並みの面影を残す屯渓市の「宋街」をゆっくり見物してから黄山へ向うことをおすすめしたい。富春江は、ここでは新安江となって町のかたわらを流れている。

私が黄山へ向ったのは、杭州から前記のコースをたどって、であった。黄山を訪ねる前に、ぜひとも富春江をながめたかったからである。この流れに沿う一帯には、元末の山水画の大家、黄公望が好んで描いたじつに美しい風景がつづいている。まさしく山と水。ここから中国絵画史に不朽の名をとどめる神品、黄公望の「富春山居図巻」が生れたのである。そのたたずまいは、いまもほとんど変っていない。絵そのものといってもいいほどだ。

私は中国の人びとの山に寄せる深い思いについて述べてきたが、忘れてならないのは、彼らにとって、山は水と不可分の関係にあるということである。郭煕がいうように、「水は山の血管」なのであり、「山は水を得て活きる」からである。だからこそ、「山水」と呼ばれるのだ。

私は舟で富春江をさかのぼり、江に影を落す山の姿をながめて、画巻のなかにいる思いだった。時は五月、天地はまさに春に富み、山居を夢みるにあまりある陽光にあふれていた。そして、ついに屯渓市に達し、「宋街」を逍遥しつつ、私は、やっと黄山をめざす心の準備を終えたのである。

その昔、黄山は?山(いざん)と呼ばれていたという。「?」とは黒の意であり、それが「黄」に変わったわけである。「黄山」の名づけ親は唐の玄宗皇帝で、その由来は、神話時代の中国の皇帝である「黄帝」が、この山で仙術を授けられたという伝説にある。むろん、これは道家が黄帝を神仙の祖として取りこんだあとにつくられた伝説であるが、道教の歩みとともに、黄帝にはさまざまな徳が関係づけられるようになった。

たとえば、黄帝は衣服を初めてつくった。舟や牛車を発明した。さらに、弓矢も、指南車も、暦も、みなこの皇帝に附会されている。が、なかでも神仙術と深く結びつけられ、「黄老」というイメージに祭りあげられて、医薬の神とされるに至った。すなわち、仙薬である。黄帝にまつわる伝説はさまざまだが、屯渓で買い求めた『黄山縦横談』という案内記には、大意が、こんなふうに語られている。

黄帝は天下を充分に治め、その位にあること百年、深く民心をとらえた。が、やがて体力がしだいに衰えてきたので、永遠の理想郷に身を置きたいと思った。大臣のなかに容成子、浮丘公という二人の仙翁がいたので、黄帝はこの二人を師として仙術を身につけたいと頼んだ。すると浮丘公は、こういった。

「仙術を習得し、仙薬をつくるには、深山幽谷をえらんで棲まねばならない。そなたは五嶽三山を歴訪したのち、江南の?山に到り、そこを修行の場となさったらよい。?山は、雲、碧漢に凝り、気は群峰に冠たるものがある。そこには清泉が湧き、奇松があり、花は見事で、まさしく仙術を学ぶのに理想的な地である」。そこで、黄帝は浮丘公、容成子ともども、この山に棲み、仙人になった……。

こうして、黄山は黄帝の山、仙境になったのである。

では、そもそも、山の真髄をなす要素ともいうべきものは何なのであろうか。

まず、山の「気」である。中国の人たちは、山にはかならず「気」がこもっていると考えた。むろん、「気」は山にだけあるのではなく、広大な宇宙に陰陽二気が遍在しているわけであるが、山には山の「気」が秘められている。ふたたび、山水を熟視した中国画人の論を傾聴しよう。さきの郭煕より数十年あとの北宋・徽宗朝の画家、韓拙に『山水純全集』という画論があるが、彼はそのなかで、つぎのようにいっている。

そもそも山川の気全般にわたって、雲がその統括者である。雲は深谷より出でて嵎夷(日の出るところ)に納まる。日を蓋し、空を掩い、渺々として拘束するものなく、晴れた空に昇れば四季の気を顕わし、曇った日に散れば四季の象を生ずる。……しかし、雲の実体は聚散一ならず、軽いのは煙となり重いのは霧となり、浮いては靄となり聚っては気となる。山嵐の気というのは煙のもう一つ軽いものである。雲は捲き霞は舒びる。雲というものは要するに気の聚ったものである。(青木正児訳)

すなわち「気」を帯びた雲こそが、山には必須の要素だというのである。したがって、山にどんなふうに雲が流れるか、漂うか、たれこめるか、ひろがるか、こうした「雲気」こそが鑑賞の対象になる。中国の絵画、とくに山水画において、何より重視されるのは「気韻生動」である。つまり、その画面に、はっきりと「気」が感じられなければ、そんな絵はとうてい神品とはいえない、というのだ。「気韻」とは宇宙の霊といってもいい。そして、山ではその宇宙の霊を雲が代表するのである。

その雲は、石にふれて湧き、また雲は山が生みだすと中国の人びとは考えた。そこで雲はまた「雲根」とも呼ぼれた。「雲根」とは雲であると同時に山のことでもあり、石の異名でもある。つまり、雲の根は石であり、そのような石を擁している山なのである。この三つは同体といっていい。山はこの三要素で性格をきめるのだ。
私はこれまで、中国の名山とされている山々をいくつか訪ねて歩いた。四川省の峨眉山、山西省の五台山、湖南省の南嶽・衡山、山東省の東嶽・泰山、河南省の中嶽・嵩山、道教の“本山"といわれる、江蘇省の茅山、また、詩人李白の墓がある馬鞍山、浙江省の天台山、そして、江西省の廬山………。

これらの山々で、私はいつも雲の行方を追った。だが、「雲気」といい、「雲根」というなら、忘れ得ぬ山の相貌は、廬山であり、衡山であり、嵩山だった。ことに廬山の五老峰を望みつつ迎えた旭日の風景。私は雲中におり、雲外におり、ふたたび雲中に立ちつくした。そして私は心から韓拙の山水論に共感し、李白の詩に陶酔したのである。李白はその情景を、こう詠っているのである。

廬山東南の五老峰。青天削り出だす金芙蓉。……吾将に此の地の雲松に巣らん。

だが、黄山の雲根は私がながめたこれまでの山々を、はるかに越えるものだった!私はまず、山麓の雲谷賓館の露台で屹立する黄山の峰を見あげ、しばし茫然自失の態だった。雲が去来し、山容が刻々と改まるのである。細雨で煙っていた峰は、つぎの瞬間、全貌を現わし、再び烟雨に煙る。その情景は、言葉を越えて、まさに気韻生動の境であった。

翌日。空は水晶のように澄んでいた。私は雲谷寺からロープウェイで「北海賓館」に至り、この旅宿を足場にして、黄山の奇勝をさぐった。まず始信峰へ登り、拝雲亭から「西海」を臨み、獅子峰をたずね、翌朝は日の出を拝みに清涼台へ足をのぼした。さらに光明頂から胸を衝く「百歩雲梯」を攀じて、かつての文殊院のあとといわれる玉屏楼に達し、蓮花峰、天都峰に心奪われつつ半山寺へくだった。

こうした黄山の探勝で、私をおどろかせたのは、「百歩雲梯」と呼ぼれるように、まるで雲に梯子をかけたかに思えるほどの石段が峰々に刻まれ、山腹をめぐり、深い谷へくだり、いたるところに立ちはだかる奇岩にしつらえてあることだった。その石段の数、なんと二万二千段もあるというのだ!だれが、いつ、どのように、どれほどの労力をかけてつくったのか。しかし、そのおかげで、いまや多くの人たちが、杖をつき、肩で息しながらも、黄山の景色を心ゆくまで賞讃できるようになったのである。私はその石段ひとつひとつに、あらためて中国人の山に対する激しい情念を見る思いがした。

黄山の気韻、その奇勝のひとつひとつを語るには、私の拙い筆をもってしては、いかんともなしがたい。それを描くことができるのは、明末清初の画僧、石濤のような彩管をもってする以外にはあるまい。黄山をめぐっているあいだ、私の胸中に去来していたのは、この山に魂を預け、精魂こめて石濤が描いた『黄山八勝画冊』の気韻生動する一枚一枚の画面、そして、日本の画家、東山魁夷氏が、おなじように黄山を踏査して、唐招提寺の襖に長い年月のすえ画筆をふるった『黄山暁雲』のイメージであった。

画家石涛がこの山に対してから、二百数十年の歳月が流れた。だが、雲はおなじように流れ、老松は奇岩の上に変らぬ姿をとどめている。その山気、その雲根にカメラを持って迫ろうとした一人の中国の写真家がいる。汪蕪生氏だ。氏は黄山に棲み、この仙境をくまなくめぐって、片時もカメラを手放さなかった。

そのようにして、汪氏が撮りつづけた作品に接したとき、私は一瞬、山水画ではないかと思った。そう、それはまさしくフィルムに焼きつけた山水図である。むろん、絵と写真とではちがうだろう。けれども「林泉を愛する志」「烟霞の友たらんとする願い」をひとしくすれば、その隔たりは消え失せる。

中国の画論によれば、畫とは畫るということだという。すなわち、「物象を心で度ってその真を取るの意だ」とある(荊浩『筆法記』)。だとすれば、写真もまたおなじではないか。汪氏の作品には、まさしく気韻が生動し、山水と撮影者との「気」が見事に溶け合っている。そこには、高遠、深遠、平遠というあの「三遠」の法も自在に駆使されている。

屏風に仕立てられた汪氏の大作の前で、私が感じとったのは、その見事な画面もさることながら、千数百年来、中国で受けつがれてきたこの国の人びとの山に寄せる「魂醜」であった。

そのような汪氏の写真集に、私はこのような貧しい一文をつづったのだが、黄山の勝景については、とうとう何も書かなかった。いや、何も書けなかったのだ。また、書く必要もなかった。なぜなら、黄山の真髄は、ここに収められた汪氏の作品によって、あますところなく写しとられているからである。言葉というなら、私は石濤の詩をもって、わが意に代えたいと思う。彼は、こう吟じているのだ。

黄山是我師 我是黄山友

心期万類中 黄峯無不有

事実不可伝 言亦難住口


黄山は是れ我が師 我は是れ黄山の友

心に期す万類の中 黄峯有らざる無し

事実は伝う可からず 言は亦口に住み難し

(もりもとてつろう評論家